松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「ホロコースト」という言葉の使用法について

、3/22 3/23に次のように書いた。
ナチによる迫害(殺害)を受けた二つのグループがある。
(A)ユダヤ人。(B)それ以外のロマ人、スラブ民族(特に戦争捕虜)、共産主義者ポーランド人、身体障害者、同性愛者など。
(A)それとも(A)+(B)、一体、ホロコーストとはどちらを指す言葉なのか?
あいまいなまま使用しつづける場合、忘れられたまま殺されていったたくさんの人々(B)の隠蔽に加担することになってしまいます。
したがって、ホロコースト(holocaust)という言葉を使うべきではないのではないか、と思うのです。


(A) 「ホロコースト」と無冠詞でいえばふつうナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺のことを指し、シンティ・ロマの人々や障害者の虐殺については一般的にはこれを含めない*1。
hokusyuさんは上記の立場に立つ。


それに対して、hizzzさんは、(A)+(B)説。

誰を「ホロコースト」犠牲者とすべきかという問いは、ナチ戦争犯罪・大量虐殺=ホロコーストとして同じ意味を持って使われている現状では、ワタクシの考えでは全員(ユダヤ、ロマ、ポーランド、犯罪者、障害者、同性愛者)です。
http://d.hatena.ne.jp/hizzz/20090309#p6

ユダヤ人が既に言説空間上で獲得した利権*1に対し、ロマ族も同等の権利があるとして要求する戦略によるもの。(私はロマ族の権利要求は支持したいと思う。)


したがってこのように、ホロコーストについては、A、あるいはA+Bと二つの意味が混在した状況が長い間、続いている。それは無視できる問題ではない。であるのに、解決することができずにきた。
ホロコーストの実状があまり知られていない日本では余計、このような語の多義性は、Bの隠蔽に加担する効果を生んでしまうことは明らかです。
でこのことについて、id:hokusyuは、

さて、ロマやポーランド人の虐殺が、ホロコーストに比べて圧倒的に参照されていないのはなぜかという問題ですが、これは悪しき商業主義のせいとしか申し上げられません。ユダヤ人600万人、それも「人種思想」の標的の中心であったというインパクトは、資本主義的にはロマ50万人などよりも残念ながら大きいのです。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20090323

という破廉恥な答弁をしている。既成の言説空間における圧倒的に不公平な布置が存在しているので、商売にならないから資本主義的には取り上げられないという結果を生む。それに対し、資本主義的には取り上げられないという結果それ自身をもって不公平を弁護してしまっている。こんなことで21世紀の歴史家たりうるのかね?

hokusyuさんは(略)差別自体も「教科書に載ってる」ことや当方でPDFを紹介している宮本和弥の『シンティ・ロマの戦後補償』論文をひいて「保障している」と、ロマ人権回復には、制度的に十全されているかのような官僚的答弁をなされている
http://d.hatena.ne.jp/hizzz/20090309#p6

というていたらくである。
約2週間考えてみたが、二義性が後者の隠蔽に加担していることは覆し得ない。
でこの点について、みなさんのご意見をお聞きしたいです。
(特に、PledgeCrewさんとApemanさんに)

陰謀論の地平に還元すること

 一番やってはいけないのは、この区別の原因は、ユダヤ人が「ホロコースト利権」のためにそうすることを望んでいるのだという陰謀論的な解釈に飛びつくことである。(略)
これは、「ホロコースト」を「道徳的棍棒」であると主張した作家マルティン・ヴァルザーへの支持とも重なって、ドイツにおいて反ユダヤの運動を拡大させた。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20090324

 さて、hokusyuさんの長い回答*2は結局、ある質問に対して、質問が本来置かれていた地平とは別の地平に投影し、それが「反ユダヤの運動の拡大」の利益になるかどうかという1点で判断する、というものであり、端的に公平性を欠いている。

私は論争家であるべきか?

ブロガーは意見を提示する。それを他者が読む以上論争的応答も避けられない。論争を「よりよく」行うためにはある平板な地平を用意し、証拠について採用されるべきかされざるべきかの基準を自他が共有する必要がある。そして判断の基準として、過去の歴史学の達成や方法を取るべきである。
Apemanさんなどは自覚的にそのような立場を取られているようであり、それが対「熱湯欲」に有効であったことは強調されるべきだし、一般的にもベターな方法であろう。*3

>> それにしても「〈不可能性〉」とは、あまりに抽象的で曖昧な言葉ではないでしょうか。
「世界の片隅で誰からも見捨てられた死というものは実際に存在する。しかし定義により、それにわたしが近づくことはできない。したがってその「被害の実在性」を法的あるいは政治的に立証することはできない。」というのはわたしには、曖昧さから遠い、真実であると思われます。

虐殺が存在しているかもしれないし存在していないかもしれない。そうした事実のあり方はなかなかに耐えがたいものです。しかし、現実というものは往々にしてそういうものではないかと思っています。
「むしろ、なにひとつ支えにするものがないという状態こそ、ようやく人間にふさわしい状態なのではないだろうか、というものの見方があってもいいのに、」とアドルノは、p466「否定弁証法」で言っていますが、似た感触を感じます。

>>「ホロコースト神話」の欺瞞性に薄々感づき、あるいは、それを無意識下に抑圧しているために、
「耐えがたいこと」に堪(こら)え性がない人が、「ホロコースト神話の欺瞞性」などとすぐに思ってしまうのではないか、と私は思います。
ホロコースト神話の欺瞞性」というものが事実のレベルであったとは私は思っていません。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090107#c1237984983

世界の片隅で誰からも見捨てられた死というものは実際に存在する。にもかからず、「論争家」というスタイルではそれに言及できない。比喩としてのアウシュヴィッツというテーマに関わるときは、「論争家」という禁欲的なスタイルにこだわるべきではない。*4

〈不可能性〉を問題にするのは

アウシュヴィッツを自分の問題として引き受けるためである。
この世は神(あるいは真理)が支配する場だということの確認がヨーロッパ哲学の目的であった。したがってヨーロッパ文明の中核がアウシュヴィッツの犯罪を犯したことは、すなわちヨーロッパ哲学とヨーロッパ文明全体の全面的崩壊につながることである。*5


・・・すなわちアウシュヴィッツを歴史的に考えるとき、それが弁証法的な結果であるとはいかなる意味においても考えられないのである。自分にたいする他者を止揚して、けっきょくそれを自己に回帰するための媒介とする思弁では、絶滅し、黙殺される他者、忘却それ自体の忘却としての他者をいかようにも説明できないであろう。*6・・・
「自己が全体であるかのように自分のうちに休らってしまわないこと」とアドルノは命令する。そのような文体では思考していなくとも、わたしというものはすでに「世界」つまり全体としてしか自己を構成できない。そうであるというあり方を挑発するという、不可能に近い小さな飛躍が常になされなくてはならない。

狭義の「ホロコースト」=人種」撲滅政策

hizzz 2009/04/05 11:37 >ロマ族も同等の権利があるとして要求する戦略によるもの

ロマについて書いたページに追加しており、結果的にそれも加味はしておりますが、たんなる「戦略」としてそうとっているのではありません。
「ナチ戦争犯罪・大量虐殺」の特徴は「人種」撲滅政策であり、その排除すべき「人種」の<狭義>の前提として4親等/8親等という血統でターゲットとなったのはユダヤとロマ。<広義>の前提でターゲットとなったのが、ドイツ化に適さないポーランド・スラブ系、犯罪者、障害者、同性愛者。という、文献でも実証されている歴史事実からです。
そこから、ナチ戦争犯罪・大量虐殺=ホロコーストとして使われている現状でそれを、「ユダヤ人<だけ=唯一>の大量虐殺」と定義することは、端的に史実に反しているという基本的なことです。むしろ「戦略」として、「問題の切り分け」として、<広義>と<狭義>「解釈」変化が全体の整合性を損なうことがダブルスタンダードあり、それが現存するロマ差別を産んでいると見てます。

hizzzさんによるコメント。Bはb1(ロマ)とb2(それ以外)に分けて考えるべきという話。(重要なので上に上げた)

*1:優先的参照権。賠償請求権など具体的権利にも波及する

*2:http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20090324/p1

*3:ただしhokusyuさんのようにその方法にたけいていない人を侮蔑することによって論点を隠蔽する手法は良くない。TBを削除してまで?

*4:(たぶん)一方反ユダヤ主義者との論争などでは禁欲的なスタイルを予め明示した上で議論にのぞむことがしばしば有効である。論敵がしばしばトンデモといわれるもの立場だからである。

*5:http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090322#p1 自己引用

*6:ハイデガーと「ユダヤ人」 リオタール p228 isbn:4938661489

野原燐さんへの質問 へ接近

http://d.hatena.ne.jp/PledgeCrew/20090325 で質問をいただいてからだいぶ経ってしまった。お返事が遅れたことをお詫びする。
ただ、ここでももう少し迂回する。
PledgeCrewさんはすぐ翌日、石原吉郎の長い文章を引用してる。

死は、死の側からだけの一方的な死であって、私たちの側 ― 私たちが私たちである限り、私たちはつねに生の側にいる ― からは、なんの意味もそれにつけ加えることはできない。死はどのような意味もつけ加えられることなしに、それ自身重大であり、しかもその重大さが、おそらく私たちに何のかかわりもないという発見は、私たちの生を必然的に退廃させるだろう。しかしその退廃の中から、無数の死へ、無数の無名の死へ拡散することは、さらに大きな退廃であると私は考えざるを得ない。

死者の死に「なんの意味もつけ加えることはできない」生者は。と石原は語る。
しかし戦争における死者は常に「誉れ」あるいは「被害(残虐な敵に殺された)」として、国家が大量に感情を動員する材料になる。石原の発言はそのような動員を厳しく拒否し、死者の実存の近くに立ち尽くそうとする詩人の姿勢を示したものであろう。アウシュヴィッツの深淵に近づくためにはこのような姿勢が必要である。
「その意味で、すべての死は「唯一無比」なものだ。それは、どんな場合にも前提とされるべきことだ。」と、PledgeCrewさんは語る。すべての死に話を広げる必要はないだろう。アウシュヴィッツや南京のような「見捨てられた死」をとりあえず考えている。
20090329#p2 に書いたように、アウシュヴィッツは表象不可能に限りなく近い。「つまり言語化することさえできない文字通り想像を絶した状況、「語りえぬこと」を表象することは不可能であり、またそれを行うことは重大な侵犯行為となるという*3。」
しかし、ドイツでも日本でも、それらを隠蔽しようとする巨大なベクトルが当時から今までずっと続いている以上、わたしたちがしなければならないことはそのようなベクトルに対抗することである。
表象〜発言はそれがうまくいったとき、言説空間に一定の存在を得る。ところがそのような成功は逆に死をなんらかの政治的力に変換していることを意味しているのではないか。詩人は常にそのように問いかける。「思考が真であるためには、思考は思考自身に対抗して思考しなければならない。」という深淵を確認しわたしたちはそれでも歩んで行かなくてはならない。

野原燐さんへの質問 へ接近(2)

さて(11日経ったが)、PledgeCrewさんの質問は「「ホロコーストは、他の同様の事件と同じように語ることを許されぬ「唯一無比」のものだ」と語る言説は、プロパガンダである、と判断してもよいのではないでしょうか?(野原)」
という文章についてのものだ。
これについては、Apemanさんからも質問があった。

誰が・どのような文脈で発言するか、というファクターを捨象してなにごとかを「プロパガンダ」と判断することなどできるのでしょうか? RAAを日本軍慰安所と「同じように語る」ことによって特定の政治的効果を達成しようとする人々がいることを、日本社会に住んでいる人間は知りうるはずだと思いますが。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090324#c1237905987

次のとおり簡単に回答した。

おっしゃるとおりですね。わたしは、「「唯一無比」性を強調する」ある種の言説が欧米には溢れており、それが(普通の理解では)プロパガンダであるという事実を問題にしているだけです。該当の文章については、より適切なものに訂正していく用意はあります。
「「唯一無比」性を強調する」ある種の言説が欧米には溢れているという事実については、わたしよりapemanさんや、hokusyuさんの方がよっぽど良くご存知のはずです。
hokusyuさんは良心的学者たちの努力という側面にばかり焦点を当てていますが、逆の側面もいくらでも存在します。

ガザ空爆は、アウシュヴィッツだ!

という断言は存在させるべきではないか? 私はそう言っても良いと思う。
 アウシュヴィッツと似たようなこと、とは一体何だろう。今回のガザ空爆をそれに挙げることができる。http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090322#p1

 ガザや西岸地区でのイスラエルの蛮行を非難するのに、ユダヤ人が過去に被った差別や虐殺の歴史を引き合いに出す必要はありません。
http://d.hatena.ne.jp/PledgeCrew/20090325

 必要がないとはしてはいけないということではありません。「シャヒード、100の命」*1という本が手元にあります。アルアクサ・インティファーダの中で死んでいった百人のパレスチナ人を追悼するための写真集です。PledgeCrewさんも見たことがおありかも知れません。で死者一人一人を美術展という形で追悼するというスタイルは、どこから生まれたのか。追悼を形、博物館にしなければならないという強い思いとアウシュヴィッツの表象不可能性との間の激論を含む長い間のユダヤ人たちの豊かな体験。*2そこから生まれてきたものに違いないと私は思うのです。原爆の死者たちや東京大空襲の死者たちは一人一人顔写真と遺品つきで追悼されるといった機会を得てはいません。
また、hizzzさんが紹介されるように、ロマの人たちにとっては、ユダヤ人がすでに獲得した政治的および言説空間的権利を前提として、わたしたちも彼ら並に!、と要求することが最も適切な要求方法であった(あり続けている)ことは理解しやすいことです。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090209#p1 で「「イスラエル」と「ナチス」したことは同じ(1)〜(5)」という写真集を紹介しました。
http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col14925.htm以下
サンプル 

というのは左にユダヤ人被害者、右にパレスチナ人被害者が、極めて似通った構図で正確に同じ面積だけ映し出されているのだ。どちらも悲惨な写真だから先入観なしに見れば、どちらにも等しく同情の念が湧くはずだ。しかしシオニストはこの写真集に対しカンカンになり、これを決して受け入れることができないでしょう。ホロコーストは歴史上1回だけの決定的な惨事であり比較を絶するものである、これが彼らの根拠であり、それは神学的影響力でもって広範な言説磁場を作っています。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090209#p2

私の考える「「唯一無比性」の強調による悪しきプロパガンダ効果」とは、この写真集を抑圧すべきだという効果のことを(例えば)言います。

どこの国でも同じことです。

むろん、イスラエルアメリカによる「プロパガンダ」は、様々な形であるでしょう。それは、どこの国でも同じことです。id:PledgeCrew:20090325

これは私とは全く違った世界認識ですね。アフリカの混乱した国家の千人の被殺害者と日本の千人の被殺害者は全く違った価値を持ちます。先進国の報道される被殺害者と後進国の報道されない被殺害者は価値が違うのです。パレスチナの死者たちは確かにイスラエル人の死者に比べると注目はされないが、大きくは「報道される被殺害者」に入ります。ですから数十人ならともかく千人以上殺せば当然イスラエル国家はその国際的地位を失うはずです。それを失わないのは何故か?「ハマス=テロリスト」を含んだ「プロパガンダ」の効果ではないですか?

あなたの言葉は、そういった点についても、いささか慎重な考察に欠けた粗雑なものであり、単純過ぎるように思えます。(同上)

おっしゃるとおりであり、今後注意はしていきたいと思います。ただわたしの文章に対して、「ホロコースト否認(および否認への寛容な態度)に利用されてはならない(Apeman)」という1点だけに反応するセンサーを行使するのはどうなのか。むしろいま必要なものは、「今後も続くガザ等への抑圧に目を向けさせるか背けさせるか」というセンサーではないでしょうか?

*1:シャヒードはアラビア語で殉教者、殉国者。原義は証人。

*2:ユダヤ人も含む