松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

オーヴァーラッピングの重要性

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20081109#p2 の続き

それから、野原さんの意見なのだが*7、私としては同一性か差異かというよりも、ジョン・ロールズから言葉を盗めば、オーヴァーラッピングということが重要なのではないかと思うのだ。韓国語のことはよくわからないけれど、日本語と中国語というのは隠喩的というより換喩的に繋がっている。それから、日本語にしても中国語にしても単一のものではなく、常に複数形でしか語ることのできないJapanesesやChinesesとしてしか存立していないのではないか。ところで、日本語で喫茶とか喫煙という。マンダリン*1では喝茶とか抽煙という。しかし、上海では吃茶とか吃煙という。吃というのはそもそも喫の略字なので、喫茶や喫煙は中国語においては、北京はともかく上海ではOKということになるのだ。

さて、図書館が「トゥシュークァン」ということだけど、書(shu)はシューよりも寧ろスーに近い。上海をシャンハイというのも英語の影響であって、実際はサンハイに近い。また、館という字は、そういう方の多くは既にこの世の人ではないのかも知れないが、戦前の教育を受けた教養のある日本人だったら、クワンと発音していた筈。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081127/1227807914#20081127f7

 sumita-mさんからTBいただいた。もちろん「同一性」が(どのレベルで)存在するのかといった議論はここではしていない。無知であるが、おそらくわたしが言いたかったことは、「ジョン・ロールズから言葉を盗めば、オーヴァーラッピング」ということにかなり近いのかもしれないです。
 また、漢字としての同一性にだけ目を奪われてもいけない。子安宣邦が言うように、人倫や倫理の意味はドイツ語(ヘーゲルとか)からじゅうとうされているのであって、漢字語であるかのように見えるのは見かけだけにすぎない。
 しかし、漢字という存在は日本語にとっての外部的なものであるかのような言説が、新しい意匠において一部発生してきているのは不愉快である。

それから、文学に限らず、日本的なものを教育において仕込むというのも実は賛成で、それは何故かといえば、ナショナリズムというのを根絶やしにすることは現実的には不可能だろうけれど、それをより凶暴ではないかたちに矯めることは可能だろうと思うからである。(同上)

日本的なものを教育において仕込むには、まず賛成しておきたい。日本的なもの=江戸時代の文化=仁斎、馬琴的なもの というのは一面的ではあるとしても否定はできない。そのとき日本的なものとは半分以上「中国的なもの」である。

所謂伝統から疎外された低文化資本な人たち、日本人であることの根拠が日本人であるだけという人たちは日本人としてのアイデンティティをどのように確認したらいいのか。

伝統から疎外された=低文化資本 という認識はどうか。伝統を源氏物語や仁斎などのような高文化にしかみていないようだ。実際は、源氏物語はだらだらした不倫の話でありプルースト的20世紀の教養においてしか高文化たりえない。源氏物語も馬琴、一九も良寛も歌舞伎も高文化ではなく、中文化(場合によっては低文化)として享受された。これが、江戸文化の底力である。この底力がエヴァンゲリオン宮崎駿にまで流れていると考えるのは妥当な理解であろう。
浪花節*2や演歌など、芸能形態としても叙情の質としてもまさに「伝統的」でありながら、低文化資本な広範な大衆に享受された文化も、近い過去にはあった。

*1:マンダリン (Mandarin) *中国および台湾の公用語。中国官話|官話(北京官話)のこと。だそうです知らなかったw

*2:一時ダイソーで売っていた百円のCDを十数枚聞いただけだがみなすごく良かった!

和製漢語

中国の子供たちが学ぶ基本的な文字3000字のうち、1000語は日本漢語である。
中国社会科学関係の60〜70パーセントは日本漢語、例えば「人民」「共和国」「憲法」「権利」「義務」「金融」「投資」「経済」・・・いずれも明治の日本人がつくった漢語である。
幕末から明治、西洋の文物を受け容れるに当たって、漢字の持つ豊かな造語力を駆使して、日本人はまず日本漢語に訳した。
日本漢語は中国人留学生などを通じて大陸に流入し、現代中国語の一部となっていった。
・・・・07年4月26日放送、NHK教育TV、「知るを楽しむ」「日中二千年 漢字のつきあい」明大教授加藤徹より。
http://asyura.com/07/bd48/msg/704.html

579 :名無氏物語:2008/03/09(日) 19:52:12 ID:2HIxGdYO
造語成分を、漢字におほく依據せねばならなかつたのは、これは已む無い 措置であるかと思はれます。何しろ、漢字には驚くべき造語能力が具はつ てゐるのですから。たとへば「經世濟民」の動詞部分のみを採つて「經濟」、 「希哲學」を「哲學」と略し……とこのやうに、たとへ二字のみにても、 他語と辨別することが可能ですし、「世界萬國博覽會東京分化大會連絡
会議室前」と、勿論これは架空のものですが、理論上は下位區分に屬する 概念を下へ下へとどんどんつなげてゆくことも可能です。膠着語たる日本語 は、助詞を用ゐることが必要になったり、また用言を活用させたりせねば なりません。あらたな概念が澎湃として起りつつあつた、または輸入され つつあつた明治期に、かかる處理が爲されたのは、止むを得ないことで あつたとも思ふのです。

580 : 会議→會議

581 : 努力がたりなかつたところもあるおもひますよ。
隋・唐にならつて律令制をとりいれたときには、官職にすべてやまとのよみが つけられたやうです。たとへば、太政官は、おおいまつりごとのつかさ、 左大臣は、ひだりのおおいもうちぎみ、です。すこしながいやうにおもはない でもないですが、なれればどうにかなるのではないでせうか。

582 : たとえば、 economy は、「ものつくりとあきなひのこと」とか、 concept は、「おもひのうち」とか、いろいろとおもひつきます。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/kobun/1137075751/571-590