松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

ちょっとのんきすぎるかも。

いま生きていることが「偽りの生」なら「真実の生」なんてものがどこかにあるのか、マイノリティだけが「偽りの生」を生きているわけじゃあるまい、というのはわからないじゃないけど、社会の暴力を個人の内面の問題として引き受けさせられている、という話への応答としては、ちょっとのんきすぎるかも。
http://www.yhlee.org/diary/?date=20080823#p01

 李怜香さんから、のid:noharra:20080823 への感想。
ちょっとニュアンスが違っていて「いま生きていることはどんな場合も「偽りの生」である」のでそうであるという前提で出発すべきだ、と思っているのです。

通名」といっても、決して仮の名ではなく、自分で選んだものでもない。これを「ハンドルネーム」になぞらえるのは、明らかに間違いだ。差別の象徴である通名を、ハンドルネームなんて軽いものになぞらえるのは許せん、という話ではなくて、筋自体がぜんぜん違うのである。

 抑圧構造=ネジレ 自体が幼いころから身に馴染んでしまったものが、通名であるということですね。
たしかに「しんどい」話である。で一見そうした「しんどい」情況を免れているかのような「ふつうの日本人」は果して本当に免れているのか。そうでもなかろう、とわたしは言いたいわけですが、特にわたしの生き方を提示できていない以上「ちょっとのんきすぎるかも」という感想しかいただけないのはしかたないですね。

ほどんど寝言

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20080823#p1 に対するブクマ。

* 2008年08月23日 sharou sharou あとで書く 在日の通名とハンドルがいっしょかいな。前提がめちゃくちゃなので、エントリー自体もほとんど寝言。リンク先の「自己否定の感情」とやらも、あまりに教条的でうんざりするが。

 わたしの人生はほとんど寝言だそうだ!
id:sharouさんの「あとで書く」にじっくり教えを乞いたい。「「人は「本名」として生きるべきだ」というのは人は職業を持ち金の奴隷として生きるべきだ」に等しい、という私の思想を批判して下さいね。

存在させようとする批評

ちょっと引用してみる。「存在させようとする批評」について。

 私は、一篇の作品、一冊の書物、1行の文章、一つの観念といったものに対して、それを判断するのではなく、存在させようとする批評といったものを思い描かずにはいられません。そうした批評は、火を点してまわり、草花が成長するのに瞳を注ぎ、風の音に耳を傾け、あわを手につかんで空中にとび散らせてくらるものです。判断をいくつもくだすのではなく、存在することのしるしを無数にわきたたせてくれるような批評。それは無数の存在のしるしに声をかけて、その眠りから呼びさましてくれるような批評なのです。ときに、存在のしるしを自分から作りだしてしまうようなことがあったとしても、それでいいのだと思います。断定的な批評というものには眠気を誘われる。私は、創造的なきらめきにみちた批評を好みます。それは読者に対する至上権を握った批評でも、命令を下す批評であってもならない。来るべき嵐の雷鳴のようなものをもたらるようなものであってほしいものです。

 これは私がネット掲載を試みている「概念集」の広告コピーでもありうるな、と思って引用してみた。


1980.4.6付けのル・モンドに載った匿名者へのインタビューより。

隠すことはない

スターをふたつ貰ったので、ということもないが、
別に隠すことでもないので。
上記の筆者はM・フーコー 翻訳紹介は蓮見重彦。(8/27追記)
わたしの浅見ではフーコーはもっとごちゃごちゃしたことを言う人で、こんな分かり易い文章は珍しいと思ってしまった。