松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

学校から あらゆる試験以外を なくそう。

 「学校という空間」のほうをこそ もんだいに すべきです。わたしの 主張は、「入学試験や定期試験」は いっさいやめにしましょう、というものです。学校から あらゆる試験を なくそう。「成績評価」ですって? おとなの ぶんざいで えらそーに! そんなものはさっさと 禁止しちまおうぜ。
http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20080802#p1

 単位制*1を否定した大学解体派の末裔として、うれしい表現です! とりあえず、転記。


ただ大学解体とかいいながら私は大学に入学し卒業し安定した職場を獲得し数十年間の給料と近い将来の退職金を入手するという人生を歩んだ。二人の子供ににもできれば良い大学に入って欲しいとそのために勉強せよと言っている。*2
矛盾です。
これを考える上でも、ちょっと茶々を入れてみよう。

β。学校から あらゆる試験を なくそう。

α。なぜ学校をなくそうではないのか? あるいは

γ。「入学試験や定期試験以外のもの」は いっさいやめにしましょう

ではないのか?
γは学校の予備校化です。*3受験校といわれるところはこれに近い。
中学高校の6年間が大学入試のためだけにあり、仕事が給料と退職金のためだけにある。なんという貧しい人間観!と嘆かれるでしょうが、本当にそうでしょうか? 
勉強や仕事は私の幸せに一致すべきものなのでしょうか?
1)勉強や仕事はなくして、新しく組織された勉強や仕事をするべきだ。
たぶんそのとおりでしょう。
2)勉強や仕事はなくならないので、それに費やす時間をできるだけ短縮すべきだ。
まあね。
3)勉強や仕事はなくならない。*4それをどう再編成すべきかという議論を勉強や仕事という時間の枠内で同等の比重を持って行うべきだ。
これが正しいような気もします。


学校が問われるべきなのに、試験を敵視してしまうβの主張はおかしいのでは?というのが、茶々です。これは茶々であって批判ではありません。突然失礼しました。


追記:「知識や技術に開する資格(特に国家認定の資格)を持つ者は、無償労働によって無資格者に奉仕しつつ、資格を認める機構=国家を解体していこうと試みる限りにおいて〈ノアの箱船〉に乗る資格を持つ(単位)」という風に言わなくても。学問とは皇帝の正義のためにあり皇帝の正義はさらに〈国=民〉の正義へと脱構築されるべきで、自己相互の身体を含めてそのための討論に参入することこそが学問である。というのは常識でもある。

*1:単位制については「単位」下記を参照してください。http://666999.info/matu/data/kagaku.html#tani

*2:正確ではないが一応そういうことにしておく

*3:わたしにはなぜ登校拒否というものがあるのか意味がわかりません。

*4:少なくとも当面

赤塚不二夫が死んで時代は暗転する!

保岡興治法相は、終身刑について「希望のない残酷な刑は日本の文化になじまない」と否定的考え方を示した。(毎日新聞8/3)
「日本は恥の文化を基礎として、潔く死をもって償うことを多くの国民が支持している」と死刑制度維持の理由を述べた。
多くの国民が殺すことを望んでいるのは単に野蛮な欲望に左右されているおぞましさにすぎない。問題は保岡氏が、死刑を「希望のない残酷な刑」とはみなしていないという点にある。「潔く死をもって償う」という主体的行為によって死刑囚のうちの何かが救われるのだ、とする宗教的信念がそこに存在するのだろう。すなわち人は日本人である限り、その人の意識如何(いかん)に関わらず二重の生を生きているのであって、つまり小さな個人としての生とそのずっと奥にある大きな日本人としての生の二つである。死刑囚は意識として反省していなくとも、国家によって聖なる死を与えられることにより最後に日本人としての共同体に復帰し永遠の生を与えられることになる。ヤスクニ・セオリーの完成態である。
赤塚不二夫が死んで日本は死刑囚すら包括する全体主義国家になった。