松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

誰が血みどろの犯行を犯したのか私は言わない。

チビチリガマの集団自決(下嶋哲朗著、凱風社)にこう記されている箇所がある。』

 太平洋戦争時の沖縄戦において集団自決は、あちこちで引き起こされた。しかしそのほとんどは、日本軍の命令あるいは自決用の手りゅう弾を配るなどの直接、間接命令にしたがう自決だった。ほとんどということの意味は、今回のチビチリガマの調査のように、まだまだ明らかにされてはいない集団自決が、相当あると思われるからである。
事実、今回の調査を通して読谷という小さな村の中だけでも、ほかに二か所の集団自決があったことを確かめているこれらなどもチビチリガマと同様に知られてはいない
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/byakuya/Taro10-330.pdf

330-戦時下の精神状態.−チビチリガマの集団自決へと追い詰められていく経過

 いわゆる「集団自決」問題に関連した村尾建吉さんのホームページをもう一度読んでみた。最初の部分は上記の通りだ。
 8/27の産経新聞 http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/16661/ では、「軍命令は創作」、つまり「軍の命令は存在したのか」を論点として取り出している。これは1992年の曽野綾子あるいはそれ以前からの論点である。しかしその論点はある圧倒的な事実に対しそれを卑小化し平板化することにより自己に安心を与えるために無意識のうちに選ばれたものではないのか。

 下嶋哲朗氏はより常識的であり、「(法的に定義された)軍命令の存否」というテーマを重視しない。「集団自決のほとんどは、日本軍の直接、間接命令にしたがう自決だった。」と要約しうる。しかし「ほとんど」というからには「例外」があるわけだ。そのような例外の細部の事情は「まだまだ明らかにされてはいない」。なぜ明らかにされないのか? さてその問いを問う前にわたしは私に問わなければならない。私は知りたいのか。私は知る権利を持つのか。
「知りたい」わけでもないのに「知る権利を持つ」という立場だけを言いつのろうとするような奇妙な倒錯にわたしたちは知らないうちに陥っているのではないのか。

集団自決の起こったチビチリガマのチビとは沖縄の言葉で尻、チリは切る、ガマは壕のことで、尻切れ壕を意味する鍾乳洞である。集団自決が39年もの間知られずにきたのは、からくも生きのびた生存者たちが固く口を閉ざしてきたからだ。何度か事実調査が行われようとしたが、成功しなかった。

 チビチリガマの集団自決は、沖縄の一地域のできごととして、とどめてよいものではない。調査は過去を暴く。だがそれは体験者たちが今日の人へ、また未来の人へ向けて、価値あるものを残すのだと理解してくれるのなら、暴きではなくなるのではないか。キズも単なるキズではなくなり、平和を産み出す、誇り高いキズとなるのではないか。

 調査者は上のような立場で分厚い沈黙を暴き真実を明らかにしようとしていく。わたしは上の思想にかならずしも反対するわけではない。しかし「未来の人に向けた価値」というものを口にする必要があるのでしょうか。悲惨な体験がその悲惨の故に沈黙をもたらすのなら、そうした理路をいまここで解きほぐすことが(あなたにとってもわたしにとっても)良いことであるはずだろう。

 証言から当時25歳の看護婦のユキが積極的に自決への役割を果たしたことが浮かび上がってくる。彼女は〈自分の親族を中心に、次つぎ毒薬を注射していったという〉。その彼女も自決する。

 わたしたちは犯人探しというゲームから簡単に逃れられると思わない方が良い。「悪いのは日本軍ではなく、Yという女性だった」という結論が発見される。その場合、産経新聞を中心にした勢力が全力でそれを広報するかもしれない。

「わからないさあ。ガマの中はよ、まっ暗して誰が誰やら、わからないですよ。うちも子どもが一人いなくって……。」
「コロシハシナイ、デナサイ。カマワン−COME ON(を人々はカマワナイと聞いた)、カマワンと。あれたちアメリカ兵のいうこと聞いておけば、こんな自決なかったのに……。」
アメリカーにつかまったら殺される。これしか考えてなかったからねえ。友軍の日本軍が、中国なんかでやったように、殺されると、これしか考えられていないからねえ。」
「春は、お母さんに首切ってもらってね。死んだよ。アメリカーは、女の子は衣服はいで、股ひろげて強姦する。それも一人や二人ではない。数えきれない兵隊が犯すよ。そしてから、腹に銃剣つき立てて殺すよ。そんな目にあって死ぬくらいなら、いっそ母ちゃんがおまえを殺して、それから母ちゃんも死ぬからって、いわれてよお……。春は首切られる前に、母ちゃんにさあ、これまで育ててもらった恩を、何回も何回もくりかえして、それから他の避難民に向かって、〈みなさん、さようなら。みなさんも、日本人なら、日本人らしく、いさぎよく自決しなさい〉といって……、包丁でねえ、母ちゃんに首切られて死んだよ。ブワーッと、あたり一面血が飛びちってねえ……。春は18歳だったな。きれいで、頭の良い子だったのに……。」
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/byakuya/330.htm

 COME ON(カモン)を「カマワン」と聞くこと。わたしたちは沖縄人に対し簡単な日常英語には(本土人と違って)強いというイメージを持って居るがそれはもちろん戦後の圧倒的な米軍基地との共存という情況によって獲得した(させられた)知識であり、1945年の時点ではそうではなかった。*1
COME ONの意味は知らずとも身振りや情況からも「カマワン」という理解は得ることが出来たしそれは正解だった。

「ニーライライというと、シナ兵はバカだからぞろぞろと出てくる……」
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/shijime.htm

COME ONもライライも意味は一緒。米兵だから助けてくれて日本兵ならレイプされると決まっているわけではない。しかしながらこの場合は「カマワン」と言われて素直に出ていった方が良かった。

著者は、「どっちみち、死ぬしかないじゃないか。だから、きのう死んでおけばよかったんだ。後でも先でもこうなるんだっ!」と昨日火をつけた男がどなり、《ガマの中で最後の争いが始まった。自決への引き金となるべく事態は着々と進行していく》、その経過を三段階に分けて記録している。

 第一段階 春の死
〔―殺してくれと……、春はお母さんに願うさあ、早くやってくれと……。
「お母さん。人の手ではなく、お母さんの手で私をやってください。アメリカーに犯されて死ぬくらいなら、私を生み、育ててくれたお母さんの手で、きれいなままで殺してください……。お母さん、私をこれまで大切に育てていただき、ありがとうございました。先に旅立つ不孝をおゆるしください。何も子どもらしい孝行もせず、申しわけありません……。」
 春(18歳)の遺言はもう……、長くて自分の思うだけの全部を、お母さんにはき出して……。〕
〔―お母が、春の首を切ったり……。〕
〔―右側を包丁で切ろうとしているさ。そしたら、左側を切ると死ぬ。右側じゃあ死ねない、という人がいたよ。その人は、「失敗しそうなら、手をかけるな!」と、お母にいったが、お母は、「できる!」といって、包丁で春の首を切ったさ。
 春が何度もお母に、やってくれ、やってくれ、と遺言してからだったよ……。〕
〔―ザーッと、血しぶきの雨だったよ。春は、もう、あたり一面に血をふき飛ばして……。〕
《母カマは、娘の春を殺してからはもう狂人であった。一族全員を自分の手で始末し、自分一人がすべての罪を背負って地獄へおちればいい……。次に目の見えない長男(平吉・27歳)を殺し、その次は口のきけない伯父(平幸・43歳)を……。
 母カマは平吉に馬乗りになると包丁をふりかざし、所かまわず突き立てていた! ちょうどそこへアメリカ兵が入ってきた。おどろいたアメリカ兵は母カマを突きとばすと、もう意識を失っている平吉の足をつかみ、外へ引きずり出したのだった。
 つづいて伯父の平幸も救出された。その後母カマは、救出しようとさしのべるアメリカ兵の手をこばみ、ガマの奥深くへ入り込んでいった。そこでは自決のすなわち第二段階が起ころうとしていた。》
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/byakuya/331.htm

 第二段階 看護婦、ユキ
 第三(最終)段階 着火
については上記を読んでください。
ネット右翼が強調したいだろうように「米兵だから助けてくれて日本兵ならレイプされると決まっているわけではない。」というのは事実である。しかし数ヶ月にわたって全島全島民は全面戦争の前線にさらされた。そして生きてアメリカのエリアに入った者たちは生き延び、そうでない者たちは「自決」という愚かな罠を回避できないという無惨な可能性にさらされた。その結果「特に沖縄では15万人あまり、実に県民の4人に1人が死んだ。」
「旧日本軍と旧米軍のどちらが加害者なのか?」どちらかと決める必要はない。ただ自国民を「自決」に向けて押し流すイデオロギーに一分の理もないことは確かであろう。「戦争は是か非か?」といった抽象的議論とは無縁に断言できることである。


さて「チビチリガマが語られないのは何故か?」それは「あまりに悲惨であり(それだけでなく)その悲惨な愚行にわたしも荷担した」ということ。自分だけならともかく最も親しい人が犯した血みどろの犯行について証言するべきだ、とあなたは言うだろうか。孔子なら否定しただろうその問いかけに。

*1:太平洋の島から帰ってきた沖縄の人もいたが例外である。

天 木 直 人 さ ん が 語 る レ バ ノ ン・パ レ ス チ ナ の い ま

(元駐レバノン大使)

日 時 ● 2006年9月5日(火) 午後6時45分〜9時(6時15分開場)

会 場 ● クレオ大阪西ホール(此花区西九条6-1-20、06-6460-7800)

http://www.creo-osaka.or.jp/west/img/map_west_l.gif

行き方 ● JR大阪環状線阪神西大阪線「西九条」駅下車、徒歩約3分

今日です。

アメリカとイスラエルによる侵略・占領によって、膨大な数の人命が失われ続けている実態を見ながら、それでも「対テロ戦争」「中東民主化構想」に無言の支持を与え続けるのか、それとも、殺される側、占領される側の視点から、この地域における本当の自由と民主主義を渇望する声に耳を澄まそうとするのか。

「膨大な数の人命」というのはちょっと違う。「(許容される)最大限の人命」というのがより正確かもしれない。「国際社会」が許容する殺害。悲惨ではなく、正義がグロテスクなまでに歪められていることを糾弾しなければならない。