松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

愛国心

http://d.hatena.ne.jp/pavlusha/20050316#p5 ここなどで、引用されている文部科学省の調査結果。自分の将来に対して肯定的な子供が少ない、とのことだ。うちの子ども(小学校高学年)に聞いても将来に対し驚くほどシニカルである。こんなことではいけない(将来に夢がなければがんばって勉強することもできない)。「テレビを見て、ゲームをして、インターネットで検索して、たまにスポーツする」という彼らの生活は多くの大人と全く同じだ。ゲームなどに費やす時間においては彼らの方が恵まれている。金は大人の方が持っているだろうが、それによって決定的差はつかない。RPGを楽しむ能力は中学生、高校生の方が上だという可能性は充分ある。であれば大人にならなければならない、という動機は持ちようがない。「しかたがないから(勉強を)やってやるか」でしかない。大人しかできないことは、
α・自立した生活を自分で建設すること  β・他者(子どもを含む)と家庭をつくること  γ・連帯し社会を少しづつでも変えていくこと  くらいかな。金を稼ぐことは本来、αの手段でしかない。しかし子どもたちは人生とは消費であると教えられている、テレビで。金を使うことが善でありそれ以外は無である。そうだとするとαは「金を稼ぐこと」になり、βは「絵に描いたような幸せ家族」を作ることになり、実際にやってみると敗北感しか味わえないことになる。
 どうしたらいいんでしょうね〜

森隆夫・お茶の水女子大名誉教授(教育行政学)の話 高校生になって自国に誇りを持てないのは、情けないこと。自分自身にも誇りを持っておらず、胸を張って生きていないのではないか。(pavlusha/20050316#p5より)

自国という言葉を、“自分が生きている社会”と捉えれば異論はない。わたしたちはわたしたちの社会の主人のはずなのに、なぜこんなに閉塞感があるのか。

この国の若者だけが「戦争を仕掛けられたら国のために戦うか?」という問いに1割足らずしかYESと答えない現状は、こっけいである。
(略)
結果論で、現代の価値観で、父祖の世代を否定ばかりするようなイデオロギーにふりまわされ、歴史の負の部分にばかり焦点を当てるような偏向教育とはおさらばしたい。
http://www.cty-net.ne.jp/~my5913/aikokushin.htm

“自分が生きている社会に誇りを持てない”若者を産みだしたのは、「偏向教育」だ*1、なんていうのは責任を一部の人に押しつけているだけだ。
 愛国心を涵養するために、日の丸君が代を卒業式などにだけ強制する。愛国心ってなんだ。60年前だらだら戦争を続けた責任は誰にあるのか、それに応えずに戦前と戦後を断続させることによって利益を得たのは誰か。吉田茂などの支配階層ではないのか。
 愛国心がないところで、日の丸君が代を強制しても奴隷根性の涵養に役立つだけでしょうに。

*1:あるいはアサヒ・岩波文化人だ

君が代斉唱しない。

 上の子の学校の卒業式に行って来た。最初に国歌斉唱があった。生徒に対して「強制はしない」旨の注意は一応あったようであり、生徒はあまり歌っていなかったような印象。わたしは君が代の強制には反対なので、その時だけ着席した。見渡せないので分からないが、わたし以外はあまりいなかったようだ。
 教育委員会に聞いてみた。君が代を歌わせる根拠は、学習指導要領にある。ちなみに学校教育法がまずあり、その施行規則があり、それを受けて学習指導要領というものがあるということ。

3入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301/03122601/012.htm
小学校学習指導要領(平成10年12月告示、15年12月一部改正)−第4章:特別活動

(3)国歌「君が代」は,いずれの学年においても指導すること。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301/03122601/007.htm
小学校学習指導要領(平成10年12月告示、15年12月一部改正)−第2章:各教科−第6節:音楽

わたしが聞きたかったことは、「国歌の意義」である。
口頭での問答だから正確ではないが、「他国の国旗国家に敬意を表することは必要である。そのためには日本人として自国の他国の国旗国家に敬意を表することも知らなければいけない。」みたいな非常に腰の引けた意義の説明のようだった。日本国については、象徴天皇と平和主義であり、そのシンボルとしての君が代みたいな感じか。

2.郷土及び国家の現状と伝統について、正しい理解に導き、進んで国際協調の精神を養うこと。
(学校教育法 18条)http://www.houko.com/00/01/S22/026.HTM#s1

「国家の伝統」ですね。これが何か?を確認したいわけですが。*1


 で、その担当者が言っていたことは、「最高裁伝習館高校判決」によって「学習指導要領の法的拘束力」が肯定されたということであった。
ふーんそうなんだ。伝習館とはなつかしい。

「高等学校学習指導要領(昭和三五年文部省告示第九四号)は法規としての性質を有するとした原審の判断は、正当として是認することができ、
http://www.asahi-net.or.jp/~si8k-nmmt/98-08-07kanagawa.htm#%87V 98-08-07(平塚養護学校

最高裁は断言しているみたいだ。困ったね。

ところで国旗国歌法って1999にできたのか。

国旗及び国歌に関する法律
平成11(1999)年8月13日 法律第127号
(国歌)
第二条 1  国歌は、君が代とする。
2   君が代の歌詞及び楽曲は、別記第二のとおりとする。
(全部で2条しかありません)

しかし学習指導要領には1968年からあったみたいだ。

2 音楽の場合、「適切な指導をすることが望ましい」として初登場した「君が代」が六八年告示から「指導するものとする」、七七年告示から「国歌『君が代』」、 そして八九年告示から「指導すること」と極めて大きく変化してきたこと。
3 学校行事等又は特別活動においては、「君が代」が七七(七八)年告示から「国歌」と書かれるとともに、「国民の祝日などにおいて…望ましい。」との一文が が八九年告示から「入学式や卒業式などにおいて…指導するものとする。」と変化し、入学式及び卒業式での強制の方向が強まったこと。
http://www.asahi-net.or.jp/~si8k-nmmt/98-08-07kanagawa.htm#%87V 98-08-07平塚養護学校

31年間かけて国民に浸透させてようやく国歌法を成立させたわけだ。
教育委員会の職員の意見は「君が代」だからではなく「国歌」だから歌いなさいという理屈のようだ。「日の丸・君が代」を「 戦前・戦中に天皇主権下で軍国主義超国家主義のために「活用」された」ものとして反発する勢力が先なのか、「軍国主義超国家主義へのノスタルジーを持つ勢力」?が先なのか。学習指導要領については後者が1968年ころからヘゲモニーを取って着実に強制の方向へ進んでいるわけだ。37年前ですからゆっくりした動きとも言えますが、最近ではビラ撒き逮捕の件もあり、安心もしていられないでしょう。
 教育委員会への電話は、勉強不足で論点を絞りきれず中途半端なまま終わりました。
 あまり内容もないのですが報告まで。

*1:右翼〜体制派は、教育勅語から敗戦までの国家主義的な社会〜国家観をもって、「伝統」と言っているようだが。残念! 日本は1300年以上の伝統があるのだがそれを無視している。

指導要領の法的拘束性

# swan_slab 『【指導要領の法的拘束性については、教育法学説上争いがある。代表的な学説として、①大綱的基準説、②外的教育条件説、③学校制度的基準説をあげることができる。①によると、学校教育法の委任による教育課程に関する国の法規命令事項は「ごく大綱的な基準」に限られるとされ、指導要領は大部分が委任の限界を超え、法的拘束力を有しないが、指導助言文書としては適法であると考えられている。②では、教育行政は教育内容、方法に介入することは許されず、指導要領は、大綱たると細目たるとを問わず、教育内容、方法に関する限り、指導、助言の効力しか持ちえないとみなされている。③は現在の通説であり、学校教育法が立法化を予定しているのは「学校制度的基準」をなす各学校段階の教育編制単位である教科目等の法定に他ならないとし、したがって、指導要領は助言指導的基準としてのみ適法であると説いている。】憲法判例百選第四版143【伝習館高校事件判決】P−302


なぜ国家が教育内容に強制力を行使できるか、というのは難しい問題ですね。』

(野原燐)
 スワンさん コメントありがとうございます。
最高裁の判断の一部に、「困ったね」という点があっても、それが常識につまり憲法に違反するものであれば、是正されていく可能性はあるということですね。
 それと、学習指導要領はあくまで学校教育法の下部の通達(みたいなもの)にすぎず、その法の範疇内でしか拘束力を及ぼしえないと。学校教育法というのは基本的には学校というものをどういう風に設置していくのかを規定したつまらない法律に過ぎない。教育の方向性とか愛国心とかの話は教育基本法の範囲になるだろう。
 そこで、憲法教育基本法さえ変えたら、わたしのような?不満分子はぐうの音もでない、ということになる、というストーリーで世の中は動いていくのでしょうか。
 ところがこのストーリーには無理がありすぎます。最初に「日の丸」「君が代」というつまらないものがあり、それを守るために憲法を変えてしまうことになる。戯画化されたアサヒ岩波知識人の悪夢に合わせて世の中は動いていくのですね。PKディックみたいですが、アメリカも実際にそうなのだし、前の大戦のように日本中が焦土になるまで引き返せないことにならないよう祈るのみです・・・

教育の質や平等の保証

# spanglemaker 『難しくありません。教育内容に強制力を行使できないならどうやって教育の質や平等を保証するんですか?』

# swan_slab 『>教育の質や平等を保証
その要請はどこから導かれるものでしょうか。』

# spanglemaker 『憲法第26条です。』

swan_slab 『憲法26条の「教育を受ける権利」の中身の理解として、教育”内容”面の保障を含むかについては争いがあります。私は含むと考えます。結論としては
> 国家の強制によって教育を良くすることができる
場合がありうると考えています。
その端的な理由は、かつてフランスにおいてジュール・フェリーが公教育の無償化・義務化を訴えたのとほぼ同じ理屈です。共和主義のイデオロギー日本国憲法の理念に置き換え、民主主義を加えて強調すれば、だいたい国家の教育権的要素は肯定的に評価できると思います。すなわち等しく公民的能力を確保する国民全体の利益がありうる。

しかし、それは憲法26条の一解釈です。それに尽きるものとも考えることはできません。
spanglemakerさんはいかがお考えでしょうか。』(2005/03/19 21:42)

spanglemaker 『>>国家の強制によって教育を良くすることができる
あり得ますね。公教育では、国家が教育内容にまで強制力を行使できてはじめて、児童が平等に教育を受ける権利が保証されると言えましょう。なお、強制を受けるのは児童ではなくあくまで教師です。彼らは公務員なのだから当然です。
教育は国民の共同事業です。使えるものは何でも使うべきです。国家権力は使わない、というのは合理的ではありません。教育の最低限の質と平等を保証し得る最も確実な方法は国家権力を使うことです。
>>それは憲法26条の一解釈です。それに尽きるものとも考えることはできません。
何事も疑ってかかることは大事でしょうけれど、「教育の平等を保証しなくてよい」という解釈は珍説だと思います。主観ですけど。』(2005/03/20 21:13)

swan_slab 『”平等”とは何かについても争いがあるのですが、いかなる状態を平等とお考えでしょうか。』(2005/03/20 21:58)

spanglemaker 『「平等」とは何か、という問題と国家は権利を平等に保証すべし、という問題は別の問題です。』(2005/03/20 22:13)

swan_slab 『>国家は”権利”を平等に保証すべし
という命題はどこから導かれますか。』(2005/03/20 22:33)

swan_slab 『>教育の最低限の質と平等
というのは具体的にどういう質が目指されるべきで、平等とはその質の平等も含むのでしょうか。ということです。』(2005/03/20 22:56)

spanglemaker 『>>という命題はどこから導かれますか。
日本国憲法です。
>>というのは具体的にどういう質が目指されるべきで、平等とはその質の平等も含むのでしょうか。ということです。
質とは何か、平等とは何かという問題と「教育の質と平等を国家は保証すべし」という問題は別の問題です。論点そらしにはつきあいません。』(2005/03/21 19:53)

swan_slab 『>日本国憲法です。
つまり、spanglemakerさんご自身の憲法規範の解釈をお聞きしているわけなんですが。』(2005/03/21 20:40)

(野原燐)
 教育とは(少なくとも小学校の教育)とは、ちっぽけな子どもたち一人一人が主人公である。上の文章には全然書きませんでしたが、わたしの子どもを送り出してくれた卒業式には、(君が代日の丸はあったが)その基本線がしっかり貫かれており、良かったと思います。
一片の法律や通達で教育を良くすることなど出来るはずがなく、現場の先生たちが生徒とともに試行錯誤するのを、父母も協力するなかでおおらかに見守っていく方が良いと思います。実際、テレビでは、法律や規則などを逸脱気味の「ごくせん」や「金八先生」などの(ちょっと時代遅れかなみたいなテイストの)ドラマが大人気です。
 国家の強制によって教育を良くすることができる、ということはないでしょう。

2 法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。
教育基本法第6条2)

公立私立を問わず非常勤講師などの不安定雇用の比重が増えています。非常勤講師の時間当たり労働単価は正規職員の1/4位のこともめずらしくありません。その待遇の適正にも配意していただきたいものです。