松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

法と正義

id:noharra:20050123 に N・Bさんからコメントいただいた。
1/23は長くなり過ぎなので、こちらに再掲しお返事します。


# N・B
「はじめまして」
『 どうも、ちょっと「法と正義」の問題について思ったのですが、「正義」は論理的根拠としてではなく遂行的に現れるとすると、これは案外おおやさんの立場と近いのではないでしょうか?梶さんの議論は梶さん自身の関心においては彼の「正義」を示していると思います(私はある程度それを認めますし正当だとも感じます)。お二人の言説は「責任のインフレーション」(北田暁大)という事態が思わぬ反動的効果を現すということの現われとしても指摘としてもきちんと検討すべきではないかと思います。

 現在の状況は私は最も近くの権力への服従という結果がもたらされるとい
う意味で、政治的ロマン主義(それにシュミット自身)の帰結が参考になるのではと思います。ただ前提として、かつてドイツでそうっだったように自覚的思想のレベルではともかく、梶さんやおおやさんと「共有してしまっている」何かがあるのではないでしょうか?それが歴史からの反省ではないでしょうか。お二人の言説は政治的立場はある程度違っても「現実主義」という流行の罵倒語でくくれると思います、お二人が「専門家」として語ることはその現われと思います。しかし「現実主義」が勝利してしまう理由のきちんとした解明とそれに対抗する手段を私たち(失礼!)が持たないのも確かだと思います。先に出した北田さんの「責任と正義」はそういう状況に対する打開の試みと思います。ライブラリ相関社会科学の最新号(すいません未見です)などにかかれている思想史家の議論もそういう意味で参考になるのではと思います。どうも釈迦に説法のようですが、すいません。失礼します。』

正義は遂行的に

N・Bさん
はじめまして。コメントありがとうございます。

「「正義」は論理的根拠としてではなく遂行的に現れるとすると、これは案外おおやさんの立場と近いのではないでしょうか?」
なるほどそうかもしれませんね。(従軍慰安婦問題とか言うと議論がすぐに感情的に過剰に対立的になる危険性があり注意しなければいけませんね。)

北田さんの「責任と正義」ですか。前から気になっていたのでこの際買ってみよう。わたしは勉強不足で、N・Bさんが前提にされているのであろう多くの本を全然読んでいません。(2,3冊読んだのは立岩氏くらい)
「「責任のインフレーション」(北田暁大)という事態が思わぬ反動的効果を現す」ということも分かったようで分からない。
梶さんやおおやさんと「共有してしまっている」何かがある、というのは、そうだと思います。ただ、「歴史からの反省」、というのがよく分からない。
孫歌と結託した溝口一派がいつまでものさばっているのが気にいらんというようなのはどこにでもある関係性なのかもしれないけど、学界外部にはほとんどないのでは?
わたしは全くの素人です*1。ただ、いまや戦争のことは誰も実体験としては知らないわけで、そこで声の大きい方が勝つ(大衆のイメージ操作に成功する)ということは事実起こってきていることだと思います。
緻密な議論は必要ですが、慰安婦あるいは兵士の声に耳をかたむけるという行為がまずは必要だということになるのではないでしょうか。傾けたからと言ってヒステリックな慰安婦主義者にはならないでしょう、だいたいそういう者がどこで実害を及ぼしているのかが、よく分からない。(わたしもあまりできていないが)
ぜひ、もう少し説明してください。

*1:デリダや岡野氏の文章の一部をむりやり引用して書いているだけで、それらの文章がふつうどう読まれているのか分かっていません。ですからコメントはとてもありがたいです。

N・B氏発言(2回目)

(1/25朝、コメント欄から上へあげて、色をつけました。)

# N・B 『 なんかわかりにくい書き込みすいません。一段落目と二段落目の関係が不明確ですね。不勉強なくせに自分の知識を前提としすぎでした。
 私の理解を元に強引にまとめると「自立した個人」の意図した行為の責任だけを問う「弱い責任理論」は、現実の世界で起こる膨大な加害・被害を免罪してしまう。それは近代社会の現実から来ている。しかし、免除された責任を問おうとする「強い責任理論」(自由主義・N・B)は、責任の範囲を確定できないため、慰安婦の「声」だけでなく、梶さんの「声」も8lこれはある程度政党です)、さらにはユダヤ陰謀論者の「声」まですべてをもとに責任を問えることになってしまう。端的にいえば、魔女狩りが起こってしまう(私が補足すれば、それは結果的に魔女狩り的「弱い責任理論」を野放しにする)。デリダとおおやさんの類似点は本人が書いていますね、デリダについての論難には賛成できないけど。』

# N・B 『 2段落目以降ですが、「歴史からの反省」とははきっりいえば、シュミット(その他多くの人々)のワイマールからナチスにいたる行動の帰結のことです、法治主義を守るよりマシな道(反共主義という前提があるとはいえ)を選んだ結果が、「総統は法を守った」(「長いナイフの夜」のときのシュミットの言葉)ですから。
 シュミットは思想としても、彼が住んでいたワイマールドイツの問題としても批判するだけではすまない問題を突きつけていると思います。まあ、ベンヤミンファンとしては人事ではないと(この二人は思想的にも関係がある)。
 梶さんが「どこにでもある関係性」を動機の一部にしていることは、文章を読む限り本人がアイロニカルに認めていると思います。
>声の大きいほうが勝つ
 これを積極的に受け入れるのが「現実主義」ですね、でも声が大きくなる理由とそれが受け入れられる理由、さらにそれへの具体的な対抗が必要だと思うのです。
「同意=正義」論も、「現実主義」という問題を抜いて考えるとやばいと思います。
 ところで、「責任と正義」の後半はこのあたりを主題にしていると思います。
>どこで実害を及ぼしているのか
 少なくとも、おおやさんを不快にさせたのは確かです、他にもそういう人は多いでしょう。「強い責任理論」はそのような人々の「声」を聞くことを排除できないでしょう。戦術上の問題もあります。ですから、彼らがなぜそう思うのかどうすべきかはをきちんと考える義務はあると思います。

>ヒステリックな慰安婦主義者
 気になるのですが、梶さんのブログに、モジモジさんがコメントしたときに、「ヒートアップしないで」と書いています、論拠なしで一方を敵に間違っている書き、その相手に単純にこう書くのはちょっと問題ではと思いました、今度の野原さんの文章を読んでも違和感を感じます、「ヒステリック」とか「ヒートアップ」のような言葉は(それが適応される相手がどういう存在かを暗黙の前提として)、それこそ魔女狩り的レッテルとして機能しているように思うのですがいかがでしょうか?

 ちなみに私も全くの素人です。でも、人文・社会科学は「専門」の境界設定がはっきりしないし、「専門家」でも意見が違うのは厄介です、どこまでが「定説」でどこからがそうでないのかわかりにくいので素人としては困ります(居直っちゃいけませんが)(笑)。

 前のコメントの3行目は、(これはある程度正当です)です。

 では、長々と失礼しました。 』

N・B氏発言(3回目)

(1/25 21時、コメント欄から上へあげて、色をつけました。)
連続投稿、歓迎していますよ!
ちょっと……応答が遅れていてすみません。

# N・B 『 どうも、連続投稿すいません。あまり重大に取られるとちょっとまずいかなと思っています。ただ、誤解があるかもしれないのでとりあえずもうひとつだけ。前提として、私は野原さんの発言に賛成です、1月23日の『「正義の模索」を「高次の正義の設定」にすりかえるのはやめていただきたい』という意見は全く賛成です、あの日の書き込みはそれについての追加意見のつもりでした。このようなすりかえがただ現状追認だけをもたらすのは明白です。
    
 ところで、今までの議論の参考になるかもしれないような、書籍とネット上のやり取りをいくつか紹介します。ご存知かもしれませんが。
アウシュビッツと表象の限界」未来社、「三点確保」山田広昭(現代に問題としてカール・シュミットを考えるためには、ライブラリ相関社会科学12号や現代思想03−12に寄稿されている方の論文がいいと思いますが、とりあえず単著を)、「1968」作品社(とりあえず座談会の後半を立ち読み、現代日本の話です)

 内田樹さんのブログをめぐるやり取りです、以下に差別言説への批判が厄介かという見本のようなものだと思います。
http://blog.tatsuru.com/archives/000672.php http://d.hatena.ne.jp/using_pleasure/20050114
http://www.osk.3web.ne.jp/~irabuti/ http://d.hatena.ne.jp/using_pleasure/

 NHK問題について、まっとうな意見として。
http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/ 
http://deadletter.hmc5.com/blog/

 暇人に付き合ってくださりありがとうございます。私は暇ですからこれからも反応しやすいと思います。忙しいところ失礼しました。』

快不快の話

スワンさんコメントありがとう。

# swan_slab
『こんにちは。この件については、週末にちらっと意識はしたのですが、読む分量が多すぎたのでテキトーに参考にした程度ですが、結局、快不快の話だという前提があるのでつっこみにくいのはたしかです。』

# N・B
『 あ、スワンさん。お久しぶりです、あいまいな形でトラックバックしてすいません。それでも『快不快』『好悪』が基本にあると自覚するのは重要だと思います。
 
>応答が遅れていて
 普通の人が私よりずっと忙しいのはさすがに承知してます、「今は忙しい忙しい」と書くのと同時に、やたらと長く書かれるより、一言断っていただいたほうがずっと『好き』ですよ。では失礼します。』

# N・B 『前の書き込み、「返事を長く書かれるより」、です、「返事」を抜くと意味が全く変わることに今気づきました。個人的なことそのほかで余計に書きすぎましたすいません。』

具体的な他者の像

 N・Bさん 遅くなりました。

1月23日の『「正義の模索」を「高次の正義の設定」にすりかえるのはやめていただきたい』という意見は全く賛成です、あの日の書き込みはそれについての追加意見のつもりでした。このようなすりかえがただ現状追認だけをもたらすのは明白です。

というところでやっと共通点がはっきり分かって書きやすくなりました。
 ただまあ、おおやさんと梶さんの言説をきちんと検討するという課題(および「現実主義にどう対抗すべきか」論)はわたしには荷が重すぎます。中途半端に言及しているので応答が(怒りを含めて)返ってきたら対応しないといけないわけですが。(おおやさんにTB送ってないなー)
 「弱い責任理論」「強い責任理論」の説明ありがとうございました。
ただ、慰安婦「法廷」問題はまず第一義的には、「「自立した個人」の意図した行為の責任だけを問う」問題です。おおやさんの言うとおりです。

しかしそれは救済を与える法が存在しないのではなく、救済を与えることを否定する法が存在するからである(時効、除斥期間、個人補償請求権の日韓基本条約等による消滅)。もちろんこの点を争う議論は法的に可能だが(eg. 除斥期間は著しく正義に反する場合には適用されない)、それは「法が不在である」という主張ではない。
http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/000150.html  おおやにき: 法廷と手続的正義・続々

で、日本の法廷と戦犯法廷の二種類あるわけで、被告(天皇など)が有罪かどうかという言説ゲームで一番重要なのはおそらく上記のような「著しく正義に反する場合」とは何か、になってくるでしょう。<<天皇有罪>>は戦後日本にとってパレルゴンとして存在し、したがってそれに関係する争点は、自動的に「著しく正義に反する場合」に含まれることになる、というのがわたしの主張です。
 日本の法律理論においても、「著しく正義に反する場合」云々という法理があると、これは「強い責任理論」になるのでしょうかね。法廷という場面では、もちろんそう言い直すことは無意味になります。
 N・Bさんの発言はどういう立場からのものかといえば、「現実主義にどう対抗すべきか」論みたいなところから、ということですね。
 それよりもたぶん野原燐というものがどこに立っているのか?、N・Bさんにも読者のみなさんにも分かり難いという問題がある!
 デリダの他者論(よく分かっているわけではないが)も参照しつつわたしは。

  1. わたしはまず具体的な他者を引き寄せたい、と思う。(id:noharra:20050115#p3,id:noharra:20050125#p1)
  2. 彼女たちに言及する権利や視角を予めわたしが持っているわけではない。(悪く言えば)興味本位である。
  3. 「哀れ」という日本的抒情と関係がある、と言ったりするが(いまのところ)でまかせである。

 というようなところで戸惑いながら畏れ多くも文章を書いているのだった。
返信にならない乱文でごめんなさい。

N・Bさん発言(5回目)(1/27 19時)

1/29夜ここに上げる。

# N・B 『 ご返事ありがとうございます。前提の確認はヤッパリ必要ですね。今回、私は最初からNHK問題に関心を持っていたので、民衆戦犯法廷に話がずらされること自体が「不快」だったのです、しかも「法学者」がそれを「法学」の知識を使って支援しているのでちょっといらだっていました。ただ、このあたりは田島さんの介入で大分変わりそうなので、「法哲学」の議論を含めきちんとしたことはそちらを参照してください。
 ですが、責任理論については答えなければなりません。私は、例えば東京裁判での松井大将が不作為の責任を問われて処罰されたことや、公害裁判など、現代の司法の場には強い責任理論(そうは名乗らなくても)が相当入っているのではないかと思います、
天皇の責任は曲がりなりにも近代社会に生きていた以上先にそのレベルで問われるべきではと思います。ただ、民衆法廷の側の意図はそうではないかもしれません、おおやさんが書かれたことはその意味で妥当かなと思います。
 で、もうひとつですが「強い責任理論」という言葉は、責任のインフレーションというフレーズの説明のために出しました、ですからこの場合に適用するのはちょっと...。ただ、私は法学は本当に素人なので具体的にはわからないんですね。その点は「専門家」に期待するしかないんです。

>N・Bさんの発言は
 全くそのとおりです。もちろん、それとは別に政治的・モラル的「右左」があることも確かだと思いますが。

 「天皇有罪」と「著しく正義に反する場合」を結びつけることは、法律的にはともかく歴史的・思想的には興味深いことですね。

私は「天皇」の罪を問わないことは、むしろ合衆国が決めたことだと思っています。そこでの合衆国の決定が、戦後・高度成長以降の日本人の行動の前提ではないでしょうか。日本人の「ねじれ」は主体性は確立したいけど、高度成長の成果は手放したくない、それを不当に手に入れたのではないかという不安を消し去りたいという衝動があるといったところではないかと思います。バブル崩壊以降に表面化したのもそのせいだと思います。
 
>野原燐の立場。
 1については重要ですね、「具体的他者」というところは、抽象的他者を想定してしまいがちな私(だけじゃないね)には痛いですね、ただ、生活上の「他者」(がいない)という問題も私にはあるんですが。
 もうひとつ、デリダの場合は「正義」「他者の声」は常に切迫したものと想定されるところが重要だと思います。
 2についてですが、権利はなくても義務はあるということはあります。それに「おせっかい、興味本位の自由」という問題があります。あえて権利といいいたい気もするんですね。
 3については上の「ねじれ」を前提にした上で興味があります。野原さんにはぜひもっと突っ込んでほしいです。期待してます(えらそう)

 ところで、田島さんがおおやさんにしたコメントでの「法実証主義(純粋法学)」ですが、自然権のような法の外の正義を認めないこの思想(有名なケルゼンが「純粋法学」を唱えました)は結果的にナチスを手助けすることになってしまったわけです(ラートブルフなどの批判)、厄介なのは、カール・シュミットはケルゼン批判者だったわけです、どちらも法治主義の維持という目的を共有していたが、シュミットはナチス体制を支持し、ケルゼンは亡命するはめになったわけです。(このあたり、百円で買った「法思想史」の引き写し)。

 要するに、法を超えた正義というのは非常に「コンテクスト依存的な」厄介なものなんです。私は、社会状況と思想のかかわりはに強く興味を持っています。ただ、まだまだ勉強しなきゃいけないことは多いです。

 ところでデリダと法学は「批判法学」と一括される学派で結びついています。でも、この学派の入門書など全くないようです。私は主に「20世紀の法思想」中山竜一に頼っています。

 どうも、焦点の絞りきれない返事ですいません。では。』

遅くなった割には

(1)
えーとまず、話が戻りますが、

>どこで実害を及ぼしているのか
 少なくとも、おおやさんを不快にさせたのは確かです、他にもそういう人は多いでしょう。「強い責任理論」はそのような人々の「声」を聞くことを排除できないでしょう。

Aさんを不快にさせる、というのがいけないことなのでしょうか?これが分かりません。
国家法廷でないものが法廷と名のるのがけしからん、て別に詐欺を意図しているわけでもなし、何でそう言うことを言うのか、理解できません。
だいたい不快だと思えば見なければよいだけのことです。わざわざそれに関心を持ち文句を言う、というのはどうなんでしょうねえ。もちろんある種の愛国主義者なら分かるのですが。「わざわざ文句を言う」のは「それ」がAさんの十分には意識化されていない何かを刺激するからか、と深読みをするべきなのか?

(2)

天皇の責任は曲がりなりにも近代社会に生きていた以上先にそのレベルで問われるべきではと思います。ただ、民衆法廷の側の意図はそうではないかもしれません、

できれば、民衆法廷の側の主張をまとめたいと思っていますが・・・
(3)

私は「天皇」の罪を問わないことは、むしろ合衆国が決めたことだと思っています。そこでの合衆国の決定が、戦後・高度成長以降の日本人の行動の前提ではないでしょうか。日本人の「ねじれ」は主体性は確立したいけど、高度成長の成果は手放したくない、それを不当に手に入れたのではないかという不安を消し去りたいという衝動があるといったところではないかと思います。バブル崩壊以降に表面化したのもそのせいだと思います。

天皇」の罪を問わないことは、むしろ合衆国が決めたことだ、というのはそのとおりですね。右翼の側は、東京裁判賛成=左翼という自分たちが勝手に決めた図式を今でも信じているので、東京裁判を左から覆す勢力が登場したときの対応が支離滅裂のような気もします。
「そこでの合衆国の決定が、戦後・高度成長以降の日本人の行動の前提ではないでしょうか。」えーそうですかねえ。タブーが存在しているという事実に対しその説明をしているだけだと思います。
わたしにとって民主主義とは、憲法1条を私が否認するという意志表示を公にする(ことができる)という事実に掛かっています。*1
「高度成長の成果は手放したくない、それを不当に手に入れたのではないかという不安を消し去りたい」。
経済の利益だけ考えて、東アジア重視は駄目でアメリカ追随の方がずっと有利という判断をしているのならそれはそれで良いと思うのです。そこになんか「不安」とかなんとか心理的要因が何故入ってくるのか?主体性を確立したいとは本心では思っていないのではないか。ただのマザコンなのではないか。心理学用語を使うのは良くないと思いつつそうぼやきたくもなりますね。
(4)

 ところでデリダと法学は「批判法学」と一括される学派で結びついています。でも、この学派の入門書など全くないようです。私は主に「20世紀の法思想」中山竜一に頼っています。

「20世紀の法思想」という本も前に誰かが薦めていたなあ。
ドゥルシラ・コーネル『自由のハートで』という本は持っているんだが*2、法学(法哲学)の本なのだろうか。ただのフェミニズムの本かと思っていた。

*1:ですからわたしの主張が通れば次はまた別のことを考えなければいけない。まあそんな心配は50年ほどは不要だが。

*2:読んでない