松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

東アジアにおける国家〜コスモポリス

北朝鮮社会にどんな問題があっても、それは隣国のこと。朝鮮人が解決すれば良い。」
という台詞に私は激しい拒否感を抱いた。
倫理が最も近い国境すら越えられないとは、どんな(反)天皇制イズム?だろう。
でも、わたしはどうも倫理という言葉が好きじゃないのだ。
で次に起こったのが、「ハーバマスが聞いたらどんなに怒るか!」って、感想。
*1
で今日古本屋で、「カントのコスモポリタニズム」「ナショナリズムを越えて」とかいう小見出しのある本を見つけたので買ってみた。*2
先進国の市民感覚(常識)で第三世界に、ダイレクトに介入したとき、かなり問題のある歪みが起こるといったことは、
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20100606#p2 でも触れた。
カントの倫理が先進国の市民感覚(常識)を抽象化したものであれば、やはり同じ問題は存在しているだろう。


コスモポリタニズムについて今福は言う。

「一つの国家や民族にとらわれず、全世界を家とみなして生活する人。世界市民。国際人」といった現代の辞書的な一般定義が示すのは、西欧近代のナショナリズムの思想環境こそが、この「人間の世界的共同体」という理念の発生源となったという歴史的条件であり、そのことによって、近代のコスモポリタニズムが想定する「普遍的世界」「一つの世界共同体」とは、近代国民国家を基本単位として統合されたヨーロッパ的な「世界」像以外のなにものでもありえなかった。(p315 同書)

いまや、ファッションや都市の景観、パソコンの普及率など西欧並となった東アジアである。*3
しかし市民〜(ポリス)〜国家〜コスモポリスといった共同幻想の有り様においては大きな違いが在る。
北朝鮮社会にどんな問題があっても、それは隣国のこと。朝鮮人が解決すれば良い。」というセリフが否定されない大きな可能性があるとは、そのことを意味していよう。まあその、あえて責任といえば、その責任は6/16にも書いた「戦争責任をひたすらうやむやにした」先進国日本にあるわけ、です。


ま、とにかく、

ところで人間はもともとだれひとりとして、地上のある場所にいることについて、他人よりも多くの権利を所有しているわけではない。(カント)

地球の一部を独占的に私有する権利は本来認められるべきでないという思想は、魅力的であり、正しいと言っておきたい。

*1:ほとんど読んだことないのに。でも先日のバトラーの本はアガンベン批判から始まっていたみたいだけど、たぶんいつもあるのはハーバマス批判みたいなところでなんとなく理解している。

*2:今福龍太「クレオール主義」

*3:北朝鮮は除く、という条件がいるかもしれにないが、ここでは重視しない