続いて、千葉(高政美)さんの訴状を読んでいこう。
この「帰国運動」は過去の出来事ではありません。現在も未解決の人権人道問題なのです。そのことを是非ご理解いただきたいと思います。
ということを心に止めながら。
訴状:http://hrnk.trycomp.net/file/chiba_sojou.doc(ダウンロード版)
読むだけならここの一番下でも http://hrnk.trycomp.net/mamoru6.php(北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会 のサイトより)
まず訴状の構成を確認すると次のようです。
原告 高 政 美
被 告 在日本朝鮮人総聯合会
上記代表者 中央常任委員会議長 徐 萬述
請求の趣旨
被告は原告に対し、金11,000,000円及びこれに対する1963年10月18日から完済に至るまで年5分の割合による金員を支払え。
請求の原因
第1 本訴の目的
第2 帰国事業の犯罪性(壮大な誘拐行為)
第3 当事者
第4 事実経過
第5 被告の法的地位・性格
第6 帰国者の地位
第7 請求の根拠
第8 遅延損害金の始期
第9 結論
証拠方法
添付書類
「第2 帰国事業の犯罪性(壮大な誘拐行為)」がp3からp9であり、この文の主張の根拠ともなっている部分だ。
菊池嘉晃氏*1が明らかにした事実に主に基づいています。
帰国事業の変遷をたどることによって自ずから、総連の責任が明らかになるという構成になっている。以下その部分抜書。
1。帰国事業初期
1955年10月のソ連文書には、北朝鮮の南日外相が「(対韓国政策・統一問題で)日本に住んでいる朝鮮人を利用できそうである。」とある
特に3番目の大村収容所の帰国者に関しては、収容者の扱いを巡って日韓間で軋轢が起きており、北朝鮮は日韓間の離間を狙い、再三にわたって「大村の帰国希望者」の帰国を強く求めた。
第3に北朝鮮側の帰国者に向けた宣伝もまだ誇大ではなかった点、第4に被告の運動は組織的ではあったが、まだ小規模で、運動の参加者には確固たる帰国意思を持つ人々が目立った点から本訴において問題としている帰国事業とは性格の異なるものであった。
2。帰国事業中期 58年夏から
「同年8月11日に被告の神奈川県川崎支部中留分会が集団帰国決議を行なった」はヤラセだった。A
金日成はこの事業に大きな政治的意味を見出した B
また帰国者の中に「反動人員」「スパイ」が混じってくることも想定しており「しかるべき組織がきちんと機能している限り、我々は恐れることはない」と述べている。
帰国運動中期の特徴は、第1に北朝鮮当局が対日・対南戦略の一手段という位置づけから「在日朝鮮人の帰還」それ自体に伴う政治的・経済的利益にも着目して政策上の優先順位を挙げて帰国実現に向けた運動拡大を図った点、
第2に以前は限定的であった帰国対象を在日朝鮮人全体に広げた点、
第3に「地上の楽園」といった北朝鮮の実態とはかけ離れた誇大な宣伝が行なわれ始めた点が挙げられる。
つまり、多くの帰国者を受け入れることで北朝鮮体制の優位性を誇示する政治的意図があり、不実の宣伝、誇大な宣伝は誘引手段として行なわれたと考えられる。
1959年8月に日本と北朝鮮の赤十字社の間で結ばれた「在日朝鮮人帰還協定」に基づき、同年12月14日、第1次船が975人の帰国者を乗せて新潟港から帰国専用船で北朝鮮に出航した。
この集団帰国の背景には、50年代の貧困と差別にあえぐ在日朝鮮人社会の閉塞状況があった。帰国者には、日本での絶対的困窮と侮辱的な民族差別から脱出したいという消極的な選択とともに
しかし在日朝鮮人の多くは韓国の出身であったため「祖国への帰国」とは言うものの、実質は社会主義国・新天地への「移住」であり、安定した生活が確実に保障されていなければ帰国しなかったことは言うまでもないことである。つまり北朝鮮政府と被告が不実の宣伝と誇大広告で彼らを騙すことがなければ北朝鮮に帰国を決意することはなかったわけである。
社会主義の幻想に惑わされ、「地上の楽園」等の不実の宣伝に踊らされて、最初の2年間に約75,000人が殺到するというブームが起きたが、これらは全て北朝鮮政府と被告が仕組んだ壮大な誘拐行為であったのである。
3.帰国事業後期
帰国者は1960年をピークに急激に減少する。それは帰国者が送ってくる手紙から、北朝鮮での生活が、被告が宣伝していた「地上の楽園」とはあまりにもかけ離れた悲惨なものであるという実態が見えてきたからである。
そのため、帰国者を増やすように北朝鮮政府からの指令を受けた被告は、帰国者を増やす為に以前にもまして言葉巧みに虚言を用い、原告の養父のような構成員ですら騙して北朝鮮へと送り出したのである。
このように原告家族が北朝鮮に帰国したのは、北朝鮮政府と被告の仕組んだ「地上の楽園」である祖国への「帰国」と言う美名で巧妙に隠された誘拐行為によるものであった。
4.まとめ
北朝鮮政府は在日朝鮮人を「労働者」として、また「金ずる」として利用するために不実の宣伝と誇大広告で彼らを騙して北朝鮮に連れて行ったのである。正に歴史上にない壮大な誘拐であった。
そんな帰国者の安否を気遣う日本に残った親族は帰国者が生きていく為に、自らの生活を切り詰めてでも仕送りなどの支援をせざるを得なかった。北朝鮮政府は帰国者を「人質」に金銭や物資の献納を強いたのである。
(もっとも2006年7月のミサイル発射に対する経済制裁で北朝鮮籍の船の日本入港禁止措置が出されている為、交流は止まっている。)
(的確なまとめのように思う)
集団帰国決議の大波はヤラセだった
第一の論点Aは、「在日朝鮮人大衆の自発的盛り上がり」か「北朝鮮当局のプログラムか」にあります。この点についてp7が与える答えは後者です。
金日成は1958年8月12日、今後についてソ連側に「朝鮮労働党中央委員会連絡部(北朝鮮の対外工作機関)は、独自のチャンネルで、すでにある期間にわたって在日朝鮮人の間で必要な作業を行なっている。日本からの朝鮮人の帰国に関する問題提起において、イニシアティブを発揮するのは日本に住む朝鮮人自身となる。そして、朝鮮総連が日本政府と共和国政府へしかるべき要望をするのである。その後に共和国政府による声明が続くことになる」と説明している。実際、8月11日の「中留決議」に続き、9月8日金日成が帰国者歓迎と生活保障を表明し、帰国運動は爆発的に拡大するのだが、これら一連の流れは、北朝鮮当局のシナリオと工作に基づいたものであったのである。
(3/24追記)
北朝鮮はなぜ帰国を推進したか B
第一の目的は社会主義体制の優位性の宣伝です。いまでは理解しがたいことですが当時は在日や日本のインテリの間では、北の方がむしろ人気がありました。その一般的な優位にのっとって行われたのが帰国運動です。
世界史において、海外公民たちがいわば「自由世界」から社会主義社会に集団的に移住した実例はありません。国が南北に別れているという我が国の条件において、在日同胞たちが共和国北半分の社会主義祖国へ集団的に帰ってくるという事は、我が党と人民の勝利だけでなくすべての社会主義国の勝利となるのです。(金日成)*2
「すべての社会主義国の勝利」とはえらく話が大きいが、その裏には大きな権力闘争「八月宗派事件」(56年)を乗り越えすべての反対派を粛正したという事実がある。身内を殺したことの罪の意識が少しでもあればそれは美辞麗句によって覆い隠されなければならない。*3
註:北朝鮮のトップは1946年2月以降金日成。ソ連系、延安系、南朝鮮労働党(南労党)系が党・政府を支えた。金日成とともに中国東北部でパルチザン闘争を行った満州派は主に軍・警察に入った。
その後、朝鮮戦争休戦の頃から南労党系が粛正される。ソ連系、延安系の有力者が金日成批判を行った最大の党内闘争「八月宗派事件(56年)」を機に両派とも粛正される。満州派とそれに近い甲山派が残る。67年に甲山派も粛正される。金日成の主体思想を「唯一思想」とする唯一絶対的な独裁が確立された。p147 菊池本 一部変更
「帰国」によって北朝鮮国家が得た利益
菊池氏の「北朝鮮帰国事業」の第5章 北朝鮮はなぜ「帰国」を推進したか の小見出しを列挙しておきます。
第5章 北朝鮮はなぜ「帰国」を推進したか p131
1、社会主義の優位性宣伝と対南戦略
・金日成のシナリオと工作
・社会主義体制の優位性の宣伝
・対南戦略における意味
・帰国船の工作活動への利用
2、「帰国」にともなう経済的利益 p140
・経済的な目的(1)−−労働力補充
・経済的な目的(2)−−資産・技術の導入
「65年1月の122次船以降、帰国者一人当たりの携帯荷物の平均重量は、実に2トン超(67年7月には5.8トン)を記録した。」
・対日国交正常化は直接目的でない
・革命・対南戦略への「壮大な動員」
・なぜ五八年夏から推進したのか
人質のために金を送りつづけた在日
高政美さんは陳述書でこう語っています。
さらに、北朝鮮は、帰国者を使って在日の家族からお金を巻き上げました。在日は身内の帰国者のためにお金や物を送り続けました。何億円という例もあります。送金を断れば親族が収容所に送られると脅かされているからです。帰国者は人質で、在日が送ったのは「身代金」です。
http://hrnk.trycomp.net/saibannews.php 裁判ニュース第4号
何億円という例というのは、「北朝鮮脱出」p200に出てくる、李順花の父親の遺産40億のことでしょうか。(以上2小見出し 3・25追加)