松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

安重根とアレント

 [評議会は]、大衆社会を、だれからも選ばれず自らを構成している「エリート」によって、その根底から分散させるのにもっとも自然で最良の方法である。
したがって、公的幸福の喜びと公的任務の責任は、公的自由の趣味をもち、それなしには「幸福」でありえないような、あらゆる職業分野からきた少数の人々の共有物となるだろう。
「基本的共和国」の自発的な一員として、自分の私的幸福以上のものに気を配り、世界の状態を憂慮していることを表明した人だけが、共和国の業務を遂行するうえで発言する権利をもつだろうからである。
政治的エリートに属する人が自分で自分を選択するとすれば、それに属さない人は自分で自分を排除していることになるからである。
*1

わたしたちの社会は大衆社会なので、エリート主義はタブーである。しかし、上記でアレントの言っているのは普通言われるエリートとはずいぶん違う。「「基本的共和国」の自発的な一員として、自分の私的幸福以上のものに気を配り、世界の状態を憂慮していることを表明し」さえすれば、〈評議会〉アクティヴになれるようだ。これだとブログ・アクティヴ(いわゆるサヨ・ウヨ)とほとんど変わらない。しかし「「基本的共和国」の自発的な一員として、自分の私的幸福以上のものに気を配り、世界の状態を憂慮していることを表明する」ことの重みを、アレントはずいぶん重く考えているようだ。


ここで唐突に、安重根を思い出すわけだが、

有力紙では、安重根が事件後、獄中で書き始めて未完成に終わった「東洋平和論」や裁判所での主張に着目し、「東アジア共同体」論の先覚者としてとらえる記事が目立つ。朝鮮日報は26日付の社説で、安重根は、韓国、中国、日本が「弱肉強食」の帝国主義を超克し、共同繁栄する道を追求したと評価。「3国共同銀行」の設立など具体的な提案をしていたと指摘した。
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20091027-OYT1T00031.htm

安重根は韓国人にとって、韓国ナショナリズムのヒーローである*2。ところが、日本人にとって安重根とは何か、植民地支配のリスクがたまたま出現したものとして人格性を消去してとらえておけば良いのか?


おそらく安重根にとって「「基本的共和国」の自発的な一員として、自分の私的幸福以上のものに気を配り、世界の状態を憂慮していることを表明する」ことと、テロリズムという極端な行動を取ることとの間にはさほど大きな落差はなかったのではないか、と想像する。東アジア反日武装戦線の諸君がそうであったのと同じく。

 〈自由かつ開かれた議論〉への敬意とそれに少なくない自分の時間を掛けようとする情熱、それらがないところにわたしの活動(政治活動)はないし、それらがないなら民主主義も存在していない。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20070715#p1

と野原はかって確認しておいた。1億人日本国民が[評議会]を構成しているという途方もない夢想、民主主義とはそうした夢想に他ならない。
テロリストを排除したければ、自己の根拠を明示しなければならない。野原は、夢想=民主主義は根拠たりうると考えるが、読者の方はどう考えられるか?


稲葉先生の20070427からも3行だけ引用しておく。

 長谷部立憲主義の基本線は実は「公益」重視の功利主義的公共政策論である。
でも「公益」に関する見識を持つ「専門家」は少数である。


で、毛利先生の考える、政治参加のアクティブな主体としての「少数派」は、基本的には反差別運動がモデルなんだ。
それに対して毛利先生は「少数派」を被差別者、弱者と捉えていて、民主主義は彼らにとっては不可欠の支援ツールであるわけだ。
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20070427/p2

「少数派」=被差別者弱者は実は逆転の可能性を持つ場合があって、その契機を考察するために、安重根を考察することは不可避である。
というか(アレント以外の言う)エリートは(予定調和のサバルタンを排除した上での)言説行為を行っているが、(アレントの言う)エリートは(テロリストと同じ心を持って)言説行為を行っているのだ。

*1:http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20070530/p3 のアレント引用からの、恣意的抜き書き

*2:暗殺という大罪を犯さざるをえなかったところの