松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

いやさか/いやさかわえ/いやさかう

については、http://d.hatena.ne.jp/Prodigal_Son/20090413/1239630956 コメント欄で議論が行われ、結論がでている。

ちなみに小学館の『日本国語大辞典』では「いやさかわえ(彌榮)」の項目に「動詞『さかわゆ(栄)』の連用形に副詞『いや』がついて一語化したもの」とあります。一方角川の『古語大辞典』では「いやさか」「いやさかえ」「いやさかわえ」はなく、「いやさかはえに(彌榮映)副 「いや」は程度副詞。「さか」は繁栄の意の接頭語。「はえ」は「はゆ」の名詞形か。」とあります。いろいろ辞書を調べてみましたが「いやさか」「いやさかわえ」のいずれかで、「いやさかえ」というのは辞書の類いでは見当たりませんでした。おそらくは「いやさかわえ」というのが古い用例で、それが祝詞などにも残っているのではないでしょうか。(Wallerstein)
http://d.hatena.ne.jp/Prodigal_Son/20090413/1239630956#c1239800290

 一方「いやさかう」は「いやさかゆ」の変化したものとされていいます。その連用形としての「いやさかえ」が名詞化し、ある程度使われたと「国語学者」が考えていれば、「いやさかわえ」と同様にどこかの辞書には掲載されているはずと考えられます。それが掲載されていないという事実を考えれば「いやさかえ」という言葉は一般的ではないという結論に達します。
 ということで、「いやさかえ」というよみは、「間違い」で結論づけてもいいと思います。(himitsu04)
http://d.hatena.ne.jp/Prodigal_Son/20090413/1239630956#c1240060312

ただ辞書の編纂者は、「いやさかえ」を頭から認めていないようですが、それは「ら」抜き言葉がなかなか辞書に載らないのと同じようなものだとも考えられます。おそらく古い正式のものは「いやさかわえ」「いやさかはえ」だったのが「は」抜き、「わ」抜き言葉として通用し始め、特に神道が政治利用されるようになった時期に、それが一時的に隆盛をきわめたものでしょう。「ソース」と言われるものをみていると、ある特定の時代相が見えてきます。(Wallerstein)
http://d.hatena.ne.jp/Prodigal_Son/20090413/1239630956#c1240065407


で、下の mi-i-naさん発言だが、

婚礼の祝辞等でも年配の方はいやさかえと言われる方も多いです。(略)縁起を担ぐという意味では、いやさか、よりも、いやさかえの方がめでたい感じがするからです。

何万人もの方が婚礼の祝辞等で「いやさかえ」と言っただろうことは想像に難くない。ただそれを間違いと判断する方が多数派だったのかどうかが問題になっている。「弥栄」は大衆レベルで死語なので間違いと判断する大衆はいないわけですが。「弥栄」という言葉を知っていると思っている人で「いやさかえ」の方が正しいと思っている人がどれだけいるか。まずいないでしょう。「いやさかえの方がめでたい感じがする」というのは「弥栄という言葉を知らない」人の感じ方にすぎないのではないでしょうか。


http://d.hatena.ne.jp/Prodigal_Son/20090413/1239630956 コメント欄で、「弥栄(いやさかえ)は間違い」説を唱え勝利した人々は「左翼」であり、これは皮肉なことだ。日本文化を強制したがる自民党とそのシンパが、そもそも美しい日本語を知らないという倒錯した現実が、前提としてある。
「弥栄=いやさか」という自同律は、君が代の精神と同一視してよい。君が代を強制するのはなんらかの徳の普及でなければならないわけだが、その「なんらかの徳」自体がすでに存在しない空洞のガラクタであることを、今回の事態は示している。
(4/19記)