松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

済州島4・3事件とビルマ台風災害

 今日(5/24)の毎日新聞は1面でビルマの被災地(エヤワディ地区)に入った特派員の記事を掲げている。大型サイクロン「ナルギス」の直撃から22日になる。
 「軍政 救援より監視」というのが大きな見出しである。篠田記者の報告では、この間、物資を運ぶ軍のトラックを見たのはわずか2回、それに対し外国人やカメラマンを監視するための車両は30台いたとのこと。
 毎日「ママはどこ?」と泣きながら捜しまわっている少年がいる。彼の家族8人は彼一人を除き全員が死亡した。10歳の少年はその現実をいまだ受け入れられないのだ。


 ビルマの災害に付いては何か書きたいと思いながら何もできずにいた。四川省に比べ報道量が圧倒的に少ない。被災者救援に力を入れている(少なくとも全力でそう宣伝している)強大な中国政府に比べ、タンシュエひきいる軍事政権は被災者救援に力を入れる意志を持っていないようである。


あまりにも重すぎる現実。しかしそれはブラウン管の向こうの出来事でありわたしはぼっーとしているだけでそれはいつしか過ぎ去っていく。あまりにも重すぎる現実なのですが、この記事をこの話題から始めたのはマクラに使おうと思ったからです。

前回記事に書いたように尼崎の大学で康実さんの講演を聞いた。済州島4・3蜂起へのヘゲモニーを取ったのは、南労党の金英達であるが、彼ら指導者6人は48年8月初めに人民代表者会議への出席のため島を脱出した。当時28歳だった李徳九(イドック)*1がやむなくリーダーを引き継ぐことになった。
康実さんは李徳九の甥であり、わずか10歳でありながら彼らのためにレポとかもしたようだ。(先日のNHKTVの東京の在日女性の体験談と同じようなものだったのでしょうか。)彼の家族は虐殺の嵐に教われ、母親やわずか1歳半の妹を含む家族多数はその犠牲になる。彼はそれを直接見聞する。また、李徳九も49年6月7日射殺され、見せしめの為、さらし首にされた。*2 そしてそのとき康実さんは首実験に立ち会わされ、ハリツケになった遺体が1日も経たないのにものすごい腐臭を発する、その臭いをかいだ。
冒頭に書いたビルマの少年がただただ茫然自失せざるをえない時間を生きているのに対し、康実さんはある意味でより苛酷な体験を生きてこられたともいえるだろう。


4・3事件に対してだけでなくビルマの災害に対してすらわたしはうまく距離がとれない。であるが、
4・3事件とビルマの災害。この二つの事件にはもう一つの共通点がある。「選挙の強行」のためには、ある程度の人名の犠牲はやむを得ないと権力者が判断しそれが実行されたという点である。選挙は権力に正統性を付与する最も平和的手段であると考えられている。まあそうかもしれない。しかしそれは他の手段に比べてにすぎない。*3
権力は、自己が正統性を獲得するためならどんなことでもやる。民主主義と平和という言葉が大好きで選挙に対しナイーブな信頼感を寄せる良心的インテリの諸君は、「選挙というパラドクス」についてもたまには深く考えてみるべきである。

*1:立命館大学卒業らしい、こう書くと身近に感じます。

*2:その場所の現在の写真がこのブログにある。ttp://go-go-bunbun.blog.ocn.ne.jp/blog/2008/03/post_80a5.html

*3:ヒロヒト金正日のような絶対的カリスマがどんな危機をも乗り越えるならそれが最も「平和」を保証する。