松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

革命には革命を対置するしかない。

橋下知事は、「自治体経営に革命を起こす」と言っています。
その革命は、府民・労働者の社会保障も賃金も全部うばう血みどろの革命だと思います。私は自治体労働者の使命として、そんな革命には、労働者による労働者が生きるための革命を対置したいと思います。
http://aanduosaka.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_bacd.html

 わたしは橋下知事の悪口を言う左翼が嫌いだ。橋下知事の悪口を言うひとは言った時点で、橋下に負けているのだ。
 橋下氏はめぐまれた人生を捨ててあえて「府政の危機」に人生の一部をささげようとしている。その情熱がどこからきているのか分からないがそれは彼自身の問題に過ぎずどうでもよい。府政(一般的に地方自治および国政)の枠組はだいたい50年ほど前に作られたものがそのまま踏襲されおり、根本的矛盾は多い。その例が、道路特定財源だ。いわゆる新自由主義的改革は弱者への給付を削ることに成功したが肝心の利権構造には手をつけられないでいる。
 危機を危機と名指す橋下の方法は、欺瞞に満ちており、真の矛盾を回避して偽の敵を捏造するものだ。というのは正しいだろう。
 現状を危機として認識するかのかどうかという論点。危機を叫ぶのはかって新左翼お家芸だった。しかしこの間は上からのファシスト新自由主義者たち)のお家芸になってしまった。
 わたしは下記に転載された一人の(有名になった)女性労働者の発言を読みながらかいているのだが・・・
http://aanduosaka.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_bacd.html

 たったひとりの市民が自身に〈革命〉を引き受けるなど重すぎる荷である。しかし生きるとは大抵の場合、重すぎる荷を負わざるを得ないことであるわけだ。問題は重すぎる荷のとらえかたである。

(蛇足)

彼女の考えている革命と私の考えている革命は、まったくといってよいほど違ったものだ。だからまああまり意味のある文章ではないです。