松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

ここはどこ?わたしはだれ?

直木賞作家、桜庭一樹さんの文庫本を2冊読んでみた。『少女には向かない職業』と『ブルースカイ』だ。
とても興味深い小説だ。
一言でいうと、小説という枠組を問うていくメタ・フィクションである。それをエンターテイメントの形で成立させている。
『少女には』の後書きで杉江松恋という人が自分の桜庭論を書いている。

桜庭作品は、右で触れたように強い成長不安を抱いている少女が主人公として設定されている。彼女たちは、自らの将来に対する不安と同時に故郷に対する違和をも抱えこんで生きている。小説の舞台としては、地方の小都市など、箱庭のような閉鎖空間が選ばれることが多いが、そのために少女たちは、じりじりした焦燥を感じながらも何も行動を起こすことができずにいる。そうした日常に倦(う)んだものが「ここでないどこか」で「わたしではないわたし」になりたいと願うさまを桜庭は描いている、というのが拙稿*1の趣旨である。

まあそういった感じである。ただ正確には「ここはどこ?」「わたしはだれ?」という問が桜庭の本質であろう。「大人とか社会とか」いう現実というものがアプリオリとして存在しているという前提の上に、杉江の「成長不安」という分析パラダイムは成立している。しかし大人とは何か?ありていに言えば会社とか家族とかいうもののリアルに適応している存在のことだろう。しかし現在、会社(職業生活)や家族は、すでに疑いようのない前提として存在してはおらず、主体からの積極的(消費資本主義によってあたえられた)夢を信じるという当為においてしか存在しないものとなっている。
凡庸な評論家はすべて反動的である。わたしたちの世界はネットに氾濫した凡庸な評論家たちのせいでかろうじて崩壊を免れているにすぎない。それに対し、「ここはどこ?」「わたしはだれ?」は予め確定できないという哲学的に正しい前提から桜庭は動かない。

島の外れには、太平洋戦争のときに造られたという旧日本軍の要塞や砲台の廃墟がある。黄色いフリージアの花畑をずっと登って、黒い断崖の上のほうにぽつんと、海を見下ろせる見晴らしのいい小山があって、そこに、コンクリートの不気味な灰色の建物が残っていた。
 あたしはその廃墟そのものという感じの場所が好きで、中学に入ってから、学校帰りにときどきぶらついたりしていた。で中二の夏休みのいまは、携帯ゲーム機片手に、ジュースのペットボトルを傍らにおいて、要塞の窓だった四角い穴にぺたんと腰かけてひたすらゲームを続けていた。(略)
 そこで一人でゲームをしている時間は、なんだか楽しかった。(略)
これは夏休みの正しい使い方というやつかもしれない。(略)
p66 『少女には向かない職業』 

 ラノベ作家らしくない端正な文体。*2「そこで一人でゲームをしている時間は、なんだか楽しかった」というさりげない一行は紛れもなく反社会的として糾弾されるべき思想を隠している。これもまた文学少女(青年)のための端正な文学の原点である。
何ものでもないところの青年の自我と強大な社会なるものとの葛藤が近代文学である。桜庭には前者だけあって後者がない。それでも生きていける、しかし桜庭は作家であり物語の前提にはなんらかの確定した世界観が必要だ。
「用意するものはすりこぎと菜種油です、と静香は言った」わたしたちはなるべく具体的な二つの物をまず用意する。わたしたちがすでに生きている以上、物語はすでに始まっている。
少女には向かない職業 (創元推理文庫) ブルースカイ (ハヤカワ文庫 JA)

*1:ある雑誌に掲載した桜庭一樹

*2:孤独という記号のために砲台という記号が呼び出されているにすぎない、というふうには書かれていない。長い歴史の中で見張らしという権力を確保するために旧日本軍が造った砲台という具体的重量が呼び出されている。