松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

わたしは拒絶されるために書く

なぜたれのために一篇の詩をかくか
われわれは拒絶されるためにかく
この世界を三界にわたって否認するために
不生女*1の胎内から石ころのような思想をとりだすために
もしも手品が必要ならば
言葉を種にしてもっと強くふかく虚構するために
読まれる恥ずかしさから
逃れるために


われわれは一九六〇年代の黄昏に佇ってこう告知する
<いまや一切が終わったからほんとうにはじまる
 いまやほんとうにはじまるから一切が終った
 見事に思想の死が思想によって語られるとき
 われわはただ
 拒絶がしずかな思想の着地であることを思う
 友よ われわれはビルディングのなかで土葬されてゆく
 群衆の魂について関心をもち
 ナイフとフォークでレストランのテーブルで演ぜられる
 最後の洗練された魂の聖職者の晩餐について考察する
 彼らの貌には紫色のさびしい翳がある>


吉本隆明 「告知する歌」より

1/1に名前を出した吉本ですがああした大衆の欲望(=自己の欲望)肯定100%だけの思想家として吉本をとらえるのは間違いです。*2

いまや一切が終わったからほんとうにはじまる
いまやほんとうにはじまるから一切が終った

と告知されて50年。何が始まったのか。
わたしを含む良心的インテリはいまや日本共産党の拡大を願ったりしている。
しかしそれでは、何もはじまらなかった、というべきでしょうか。何もはじまらなかっただから、ホッブスへ帰れというのが新自由主義であり、それは終わったのだと確認できます。
すなわち、「いまや一切が終わったからほんとうにはじまる」と
今、確認できるでしょう。

*1:うまずめ

*2:同じように、「絶ゆとも絶ゆな」定家のおぼろだが絶対的なロマンティシズム(あるいはそこに「革命的」心情を投影すること)と理解することも間違いだが。