松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

あらゆる人がジェンダーをつくろうとしている過程にあるし、それに失敗し続けている、

上のタイトルは下のチャットの記録からの引用。*1
http://d.hatena.ne.jp/Backlash/20071006/p1


以下に「マルクス主義を遺産相続する」ことをめぐるデリダの文章を長々と引用する。 何の関係もないタイトルになった。*2
 なぜ遺産なんて言うのだろう? 遺産といえば相続争いである、わたしたちが遺産を引き継げばすぐに相続争いに巻き込まれる。*3 課題を知の対象ではなく肉体の対象として引き受けざるを得ないこと、相続争いにはそうしたニュアンスがある。

 すなわち、マルクス主義の遺産を引き受けねばならないということ、その最も「生き生きとした」遺産を引き受けねばならないということ、すなわち、逆説的ではあるが、生と死との対立を超えて、生の、精神の、〈亡霊的なもの〉の、〈生と死〉の問いをはてしなく俎上に置くことをやめぬものを引き受けなければならないということである。この遺産は、必要となればそれを根本的に変形させながら再肯定しなければならない。この再肯定は、マルクスの呼びかけのうちに−−さらには彼の厳命の精神のうちに、といっておこう−−響く何ものかに忠実であると同時に、遺産相続一般の概念に適合していることになるだろう。相続は、けっして所与ではないのであって、それはつねに使命なのだ。その使命がわれわれの行く手にあり続けるということは、反証の余地のないことなのであって、遺産相続を欲したり拒否したりする以前からして、われわれはすでに相続人であり、しかもあらゆる相続人がそうであるように、喪に服した相続人なのである。とりわけ、マルクス主義と呼ばれるものの相続人だとあってはなおさらそうである。(略)
われわれは相続人である。これは、われわれがしかじかのものを所有しているとか受け取るとか、ある日、しかじかの遺産相続によってこれやあれやのもので豊かになるということを意味するのではなく、われわれがそれを欲しようと欲しまいと、知ろうと知るまいと、われわれの存在が第一に相続であることを意味する。
(p129 デリダマルクスの亡霊たち』 isbn:9784894345898

この文章を引用したのは、
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20071004#p2 で「日本人には、ビルマを知らない権利はない。」と、我ながら大胆なことを書いてしまったのでそのことを考えつづけないといけない、という関連においてでした。「われわれがそれを欲しようと欲しまいと、知ろうと知るまいと、われわれの存在が第一に相続である」
わたしたちは〈大東亜〉戦争をまことに広大なアジア太平洋の帯域に繰り広げてしまった国家の裔(すえ)です。知らない、としても、わたしたちは日本人としてのアイデンティティを過剰に再生産しつづけています。戦後の日本人性の過剰さは、〈南機関〉的なものを過剰に抑圧することによって初めて成立したことは確かなことです。喜劇に終わった安部政権が示してくれたように、過剰に忘却、回避しようとする努力において辛うじてわたしたちは、大東亜戦争を相続しています。「われわれの存在が第一に相続である」ことは明らかです。
だとするとこの文脈で「生と死との対立を超えて、生の、精神の、〈亡霊的なもの〉の、〈生と死〉の問いをはてしなく俎上に置くことをやめぬものを引き受けなければならない」とは何を意味するでしょうか?
〈喪〉という一字は、わたしに次のことを示唆しました。つまり、百万とも二百万ともいわれる90年代の北朝鮮の餓死者たち。わたしが否応なくアジア主義者であるしかないとは、わたしが彼らの喪という場から立ち去ることができないということです。

*1:文脈を無視した引用で申し訳ない

*2:がそうでもないかもしれない。 生と死との対立を超えて他者を誤解し共存する歴史的に作られてきた様式、ジェンダーは、とするなら。

*3:私の場合もそうだ。参照:http://from1969.g.hatena.ne.jp/bbs/13/6 以下