松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

ビルマを知らない/南機関を知らない

南機関(みなみきかん)は、1941年から1942年にかけて存在した日本軍の特務機関の1つ。
機関長は鈴木敬司陸軍大佐。ビルマ(現在のミャンマー)の独立運動の支援を任務とし、ビルマ独立義勇軍の誕生に貢献した。その後ビルマ軍政の方針をめぐって軍中央と対立し、消滅させられた。だが南機関は、今日の日本とミャンマーとの友好関係の基礎を築いたとも評価される。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%A9%9F%E9%96%A2

 わたしは実際ビルマのことはほとんど知らない。ただ「南機関」というものがビルマと関係あったはずだと検索してみるとウィキペディアにあった。まとまった良い記事だと思う。
さして長くないので読んでください。

抜き書きもしてみた。

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ビルマ(現在のミャンマー)は、1824年に始まった英緬戦争の結果、1886年イギリス領インド帝国の一州に編入された。
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ビルマ独立運動は1930年代に活発化した。運動の前衛は1930年に結成された「タキン党」(われらビルマ人党)であった。タキン党にはラングーン大学の学生が数多く参加していた。1930年代後半に学生運動のリーダーとして活躍したのがタキン・オンサン(アウン・サン)やウ・ヌーらである。
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1940年3月大本営陸軍部は、参謀本部付元船舶課長の鈴木敬司大佐に対し、ビルマルート遮断の方策について研究するよう内示を与えた。鈴木大佐はビルマについて調べていくうちにタキン党を中核とする独立運動に着目した。運動が武装蜂起に発展するような事態となれば、ビルマルート遮断もおのずから達成できるであろう。こうして、外国勢力の援助を欲していたビルマ民族主義者と日本との提携が成立へと動き出すのである。
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(1941年)以後6月までの間に、海路及び陸路を通じて脱出したビルマ青年は予定の30名に達した。この30名が、後にビルマ独立の伝説に語られることになる「30人の同志」である。

4月初旬、海南島三亜の海軍基地の一角に特別訓練所が開設され、ビルマ青年が順次送り込まれて過酷な軍事訓練が開始された。ビルマ青年たちのリーダーはオンサンが務めた。訓練用の武器には中国戦線で捕獲した外国製の武器を準備するなどして、日本の関与が発覚しないよう細心の注意が払われた。グループに比較的遅れて加わった中にタキン・シュモンすなわちネ・ウィンがいた。ネ・ウィンは理解力に優れ、ひ弱そうに見える体格の内に凄まじい闘志を秘めていた。ネ・ウィンはたちまち頭角を現し、オンサンの右腕を担うことになる。
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12月8日、日本はアメリカ、イギリスへ宣戦布告し太平洋戦争が開始される。開戦と同時に日本軍第15軍(軍司令官:飯田祥二郎中将、第33師団および第55師団基幹)はタイへ進駐した。南機関も第15軍指揮下に移り、全員がバンコクに集結、南方企業調査会の仮面を脱ぎ捨てタイ在住のビルマ人の募兵を開始した。

12月28日、今日のミャンマー軍事政権の源流とも言うべき「ビルマ独立義勇軍」(Burma Independence Army, BIA)が宣誓式を行い、誕生を宣言した。鈴木大佐がBIA司令官となり、ビルマ名「ボーモージョー」大将を名乗った。BIAには「30人の同志」たちのほか、将校、下士官、軍属など74名の日本人も加わり、日本軍での階級とは別にBIA独自の階級を与えられた。発足時のBIAの兵力は140名、幹部は次の通りであった。
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3月7日英印軍はラングーンを放棄し脱出、3月8日第33師団がラングーンを占領した。次いでBIAも続々とラングーンへ入城した。このときBIA の兵力は約1万余まで増加していた。3月25日、BIAはラングーン駅前の競技場で観兵式典を行った。オンサンを先頭にした4,500名のBIAの行進に、ラングーン市民は熱狂した。
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この間、ビルマへの独立付与をめぐって、南方軍および第15軍と南機関との間に対立が生じていた。鈴木大佐は一日も早くビルマ独立政府を作り上げることを念願とし、オンサンたちに対しても早期の独立を約束していた。オンサンたちも、ビルマに進入しさえすれば当然に独立は達成されるであろうと期待していた。

ところが、南方軍および第15軍の意向は、彼らの願いを根底から覆すものであった。南方軍参謀石井秋穂大佐は次のように述べている[2]。

* 作戦途中に独立政権を作ると、独立政権は作戦の要求に圧せられて民心獲得に反するような政策を進めねばならなくなり、日本軍との対立が深まる。
* 形勢混沌たる時機には、民衆の真の代表でない便乗主義者が政権を取る結果になることもありうる。
* 独立政権の樹立には反対しないが、まずは単なる行政担当機関を作らせ、軍司令官の命令下に管理するのが順序である。

結局、軍中央を動かしていったのはこうした筋の見解であった。鈴木大佐以下南機関のメンバーたちは、次第に軍中央の方針に反発し、事と次第によっては反旗を翻すぞとまで言いふらすようになった。オンサンたちも日本軍を不信視し、不満の念を高めていった。
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北部ビルマ平定作戦が終了した時点でBIAの兵力は2万3千人に達していた。

 1943年8月、ビルマは独立します。日本の傀儡政権として。

1943年8月1日、ビルマはバー・モウを首班として独立し、BDAはBurma National Army, BNA(ビルマ国民軍、ないしビルマ国軍)と改名した。オンサンが国防大臣に就任したため、BNAの司令官にはネ・ウィンが任命された。その後インパール作戦で日本軍が敗退し、敗勢が明らかになるにつれ、ビルマの民心は日本から離反していった。1944年8月、BNA、ビルマ共産党人民革命党などによって抗日運動の秘密組織である「反ファシスト人民自由連盟」(AFPFL)が結成された。

1945年3月27日、BNAはオンサンの指導の下にビルマ全土で蜂起し、日本軍に襲い掛かった。このとき「30人の同志」の1人ミンオンは義を立てて自決したと伝えられている。

オンサン(アウンサン)、ネ・ウィンたちは、面従腹背で時期を待ちつづけた。そして2年待たずに蜂起した。*1
日本人の好きな忠臣蔵と同じ必殺パターンです。しかもこれはひとつの広大な国家の創設の物語です。
であるのになぜ、日本人はこの物語を知らないのでしょうか?


ひとつのシンプルな答えはすでに与えられています。江藤淳磯田光一が与えたものです。戦後の言説空間は、米国が設定したいくつかのタブーの上に成立していると。そのタブーの最大のもののひとつが、「アジア主義大東亜共栄圏」運動〜思想に対する徹底的な抑圧、無視です。左翼だけでなく、「右翼」もこれに盲従しました。
不思議なことです。

鈴木大佐、アウンサンたちの「大東亜共栄圏」運動は、軍中央との微妙な距離感において展開され、結局決定的な離反に至ります。しかもこの場合勝利したのは、大東亜を名乗っていた日本国の方ではなく、サバルタンのはずだったアウンサンたちの方でした。天皇〜国家の価値的壊滅という事態に浮き足だった戦後右翼たちは、思想というものを捨て、国家へのマゾヒズムだけを生き延びさせることしかできなくなっていましました。
大東亜共栄圏」思想の本流が、軍中央ではなくアウンサンの側にあることが明らかになってしまうこの物語(歴史)は、右翼には語り得ないものだったのです。

さて、この物語には長い後日談があります。

1962年3月2日、ビルマ軍はクーデターを決行し、司令官ネ・ウィンが大統領に就任した。ネ・ウィンの率いる軍事政権は議会制民主主義を否定して「ビルマ社会主義」を打ち出した。ネ・ウィンは1988年の民主化要求デモの責任を取って辞任したが、その後も影響力を持ち続けた。2002年、ネ・ウィンは死去した。

そして、1988年以降の民主化運動の指導者スーチーは、アウンサンの娘です。
すなわち現在のビルマ激動は、南機関の右派と左派の争いと、言えなくもないのです。
日本人には、ビルマを知らない権利はない。

*1:結果は勝利します。