松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

欺瞞としての反米/欺瞞としての平和

Arisanさんが8/8にこう書いて居られる。

たとえばケロイドを疎まれて差別され、就職や結婚が出来ないような社会、それが十分に救済されず、60年以上も放置されるような国の仕組み、そういうもののなかに、この人たちは置かれてきた。

その社会や国家全体の暴力性、そして存続は、戦争を引き起こした暴力、また原爆を投下する暴力、さらにそれを正当化する(日本やアメリカの)政治家が今も体現している暴力と、異質なものではない。

日本の社会や国家は、過去も現在も、被爆した人たちに対して加害者だ。

この事実を認めることを経なければ、「被爆国」として日本が何事かをなせるはずはない。

それ以前に、「被爆者」をはじめ、自国のなかの、また外の、過去と現在の多くの被害者たちは救済されない。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070808/p1

 
日本の社会や国家は、過去も現在も、被爆した人たちに対して加害者だ。この文章をどう読むか?
日本の社会や国家は、現在、イラクやガザの人たちに対して加害者だ。という文章の方が私には近しい。
さて・・・
「わたしの加害者性」と言ってみればそれは、認識論的アポリアを構成していることはすぐ分かる。「わたしが加害者性を持つ」なら、それを認識している(メタレベルの)わたしも加害者性に汚染されていないという保障はない。「わたしが加害者性を持つ」という命題はどんな場合もすぐに攻撃性に晒されるという脆弱性を持つ。にもかかわらず野原は「わたしは加害者性を持つ」という命題に固執し続けてきた。だからわたしは「日本の社会や国家は、過去も現在も、被爆した人たちに対して加害者だ。」と書き付けたArisanさんに対し深いシンパシーを持つものだ。

いま世間では「パートナー」「友人」としてのアメリカに、非は非として直言することが、より望ましい日米関係を作ることであり、国益にもかなう、といった言い方が広まり始めている。

相対的に利巧ではあっても、根本的には愚かな発想だ。(同上)

「非は非として直言すること」と「より望ましい日米関係を作ること」は矛盾せず、後者の目的という問題意識の範疇内では前者は許されるしむしろ推進するべきだという発想だろうか。それであれば、「より望ましい日米関係」を前提としそれを疑わないものとなってしまうので「愚かな発想」と切り捨てられても当然だろう。また「非は非として直言する」と言っている人の動機には、米下院の慰安婦決議を「日本」に対する攻撃と捉え、戦前的価値観の復権美しい国といって恥じない安倍政権のイデオロギーに共振していく情動があるとも考えられる。これも危険なことだ。

だけどもいま、私としては、「原爆投下は戦争犯罪である。」とアメリカに対して言っていくこと。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20070730#p1
テロ特措法の延長をせずアメリカの軍事戦略から一線を画すことが、たいへん大事な主張であると思っている。   
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20070810#p1

だいたい戦後60年、日本が米国に対し「非は非として直言すること」を一度でも行ったことがあるだろうか。「非を非として認識する」ことは難しく、ナルシズムに傾斜する危険性がある。だからといって「原爆を悪として攻撃する」ことなく、「祈り、許す」という宗教的ナルシズムを広めることが何か成果を生んだのだろうか?*1

現在の諸矛盾を、反米という漠然とした情緒に流してしまうことは確かに有害である。しかしいま私は「テロ特措法の延長反対」という小さな政治主張について、右派の人を含めて広く支持を広げたいと考えている。その運動は、反米という漠然とした情緒と等置されるべきものではないだろう。
一方、国益を求める思想それ自体の問題性は提起されるべきだろう。だがそれは例えば、「テロ特措法の延長反対」という小さな運動を否定するものではないと考えることもできるだろう。

*1:「祈り、許す」事自体を批判したいというよりも、ヒロシマというのが運動において権威となりその力学の内側でだけ動いていて、米日の軍事担当者たちと対話し対決する回路を遮断していたのではないのか。