松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

芭蕉・原爆・フェミニズム

えーと
 芭蕉と原爆とフェミニズムとの間には、何のつながりもない。三題噺にもならない。・・・(と思われるでしょうが、そうでもないのでは?)
 
 “Basho”の像の写真を見たとき、わたしは当然、これは芭蕉ではないと思ったわけだが、同時に、ふだん芭蕉に親しんでいるわけでもないのに、こんな「芭蕉」像をみたとたんに、アメリカ人の芭蕉誤解を得々として指摘して芭蕉の私有化をなしとげようとする良識派のオジサマ・オバサマがぞろぞろ現れるさまも想像してしまった。
 そこでわたしは、今話題の焦点である久間原爆発言批判を思い出したのだ。 ふだんから被爆者に思いを致しているわけでもないのに、(本来は独立派ナショナリストでありたいはずの)久間氏が「長崎は、本当に無傷の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今、しょうがないなという風に思っているところだ」、と語ったとたんにワラワラ湧いてきた連中。もちろんふだんから被爆者支援や反核運動をしている人たちに敬意を惜しむものではなく彼らの怒りは分かる。しかし、アメリカのイラク占領を「しょうがない」と是認し続け劣化ウラン弾に対する反対すら行わない奴らが、なぜ、被爆者の物神化にだけは荷担するのか? 同じ戦争被害者でも、沖縄集団「自決」被害者は沖縄ローカルでしか大衆の支持を獲得しえないのに。
被爆者=被害者の物神化には間違いなく〈国家形成的なポテンシャル〉が大きく孕まれている。安倍首相も本当は別の形で愛国心を形成させたいだろうが、とりあえずはこういう形でも愛国心を押さえておく方が良いと判断したのだろう。被爆者=被害者の物神化というベクトルには、戦後60年間でしっかりタガがはめられ、アメリカの原爆責任をまっすぐに追求することなく言葉の上だけで盛り上がるものとのお約束がしっかりできあがっているのだから。


 で、フェミニズムといえば本質主義批判だ。わたしたちは生まれながらに日本人であるわけではなく、その時々にはなはだチープな敵を作りだし、その敵を叩くというパフォーマンスを遂行することにより、わたしたちは自らを日本人に作りなすわけである。

というふうに、わたしの頭の中には三題噺が瞬間的にぐるぐる駆けめぐったのだが、説明するのは難しいし、うまく書けそうもなかったので、何も説明せず、「芭蕉」と原爆の並置だけにとどめておいた。

今回、macskaさんと山口さんからTBをいただき、フェミニストの方も読みに来られるかもしれないので、最低限の註釈を書いておきます。

(その写真は「芭蕉」ではないのかもしれないが、でも少しはそれを意識しているはずとわたしは今でも思っている。)