松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

ただのセクハラとしての慰安婦

 三年半ほど前、慰安婦について私が多少知っているという話を伝え聞いて、新左翼系女子学生がたずねて来た。C大学に在籍し、C派閥に属すると語っていたが、
新左翼系の男子学生幹部は“カアちゃん”と呼ぶ女子学生を持っている。これを持たないと派閥の中で大きな顔ができないのです。そのカアちゃんは言ってみれば慰安婦なのです。中には三回も四回も妊娠中絶させられた者もいます。それでいて男子幹部は彼女らがそれに甘んじるのが革命的行為であり、カアちゃんたちもそれを信じているのです。間違っているとは思いませんか」
 まるで私がその男子学生であるかのように迫ってくるのであった。彼女が言いたいのは“慰安婦”は死語ではなく新左翼の中に生きているというのであった。彼女は派閥の全学連大会でそれを告発の意味をこめて熱っぽく訴え、私に応援してくれと言うのであった。
 ここで私は考えた。もし彼女の言うとおりなら、かって自分もそのカアちゃんの一人だったとまで告白する彼女の言葉に間違いがないのなら、旧軍と新左翼に共通するものがあるのだろうか。彼女によるとカアちゃんたちは連日のように慰安をもとめられていたと言い、七〇年安保の激しいデモ戦の前後にはそれもまた激しかった、と具体的な状態を口にしつつ語るのだったが、それは体験者が語る戦場の兵隊と慰安婦のそれとあまりにも似ていた。だが、さらに耳を傾けていくと、カアちゃんの慰安するのは特定多数、もしくは多数ではなく、相手は個人に限られているところが違っていた。
 これは慰安婦ではないのではないか。警察用語でいう情婦ではないか。これに対して彼女は言うのだった。
「精神において同じです。男の女に対する蔑視、差別、これが女を単なる慰安の対象にして来たのです。軍隊の慰安婦もまたそれから生まれたのです」
 或る意味でこれは当たっているが、慰安婦の発生はすでに読まれたように単に戦力の問題と治安の問題から出発していた。過程において発想において彼女の言う思考があったが、軍は蔑視や差別以前の問題として、戦力低下を考え、治安の問題を考えていたのである。差別蔑視があったとしたらそれそこから出て来たものであった。いや、そんなことは爪のあかほどにも考えていなかったと言っていい。彼らにとってそんなもの*1は当然の常識であったからである。
 悲劇はその当然の常識だけではなかった。蔑視差別はまだ相手を人間と見ているからであったが、軍の考えは、彼らを単なる道具と考えていたのであった。初めての慰安婦を輸送船に乗せるとき軍需物資としたと書いた、が、その時それは一種の便宜であった。しかし、このとっさの思いつきに軍人の彼女らに対する思考の姿勢がはっきりと出ている。酒を飲んだとき、思わず本音を口走る人間のあれと似ている。
したがって彼女の言うカアちゃんと慰安婦と似ているようだが、慰安婦はもっと悲惨であったと思えるのであった。
千田夏光従軍慰安婦』 講談社文庫p262-264

「この作品は1973年双葉社から刊行された。」とあるので、「三年半ほど前」とは丁度1969年頃になる。千田は1924年関東州大連生まれなので45歳か、娘ほどの歳の女子学生に向き合い

まるで私がその男子学生であるかのように迫ってくるのであった。

というのが(わたしには)ひどくリアリティがありツボにはまった。わたしはこの女子学生に3、4年遅れて新左翼セクト*2の影響下にあるキャンパスで過ごしたことになる。新左翼活動家だったことはないが身近にいたのですこし“身内の恥”を感じる。しかしその約3年で新左翼周辺の雰囲気はガラッと変わったのである(わたしは以前の雰囲気を知らないから上記の文章などからの推測だが)。
上記のような怒れる女性学生は全国到るところにいた。上記の彼女の場合はたまたま「慰安婦」という言葉に反応した。他の女性たちはそれぞれ自分なりに手探りで考えを深め、田中美津などのウーマンリブとして現れることができた。その流れは曲折を経ながらも勝利し、今では「セクハラは悪である」ことを誰もが認めざるを得なくなっている。*3

従軍慰安婦」が日本国内で決定的に問題化したのは1991年12月、金学順を始めとする元「慰安婦」の韓国女性三人が、日本政府に対して謝罪と個人補償を求める訴訟を東京地裁に提起したときのことである。
p99『ナショナリズムジェンダーisbn:4791756088

と上野は1996年に語っている。が上野と関係なくこれが事実であり事実でないものを事実と言いたがる馬鹿にだまされてはならない。*4金学順たちが公式にカムアウトすることをC女子学生たちは三〇年間ずっと待ち続けてきたのである
それにしても何故三〇年掛かったのか。
一面では紛れもなくエリートでありマルクス主義系の異議申し立ての思想の洗礼を受け、欧米のリブ、フェミニズム系の思想にもアクセス出来ないことは無かったところのC女子学生たちは、やり場のない怒りを千田の前でぶちまけるに留まることなく、わずか一、二年後には自己を確立することができた。
しかし朝鮮ピーとさげすまれ、多くは小学校すら終えていない「慰安婦」たちは、戦後も長く底辺の生活から脱出することができず、周辺社会、親族の売春婦(あるいは親日派)差別の分厚さを突破してカムアウトすることなど到底できなかった。それで三〇年掛かった。

で、さらに15年以上経ち私たちは何処に立っているのだろう。(笑)

*1:以上四つの傍線は原文傍点

*2:千田は「派閥」なんて変な言葉を使っているが「セクト」という

*3:70年代広い意味の新左翼周辺では上記のような問題は常にあり「糾弾」が行われ続けた。

*4:上野千鶴子は上記のC女子学生とほぼ同年齢であり同じ空気を吸って生きてきた。