松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

中学生たちにとって「いじめ」は「ただしい」。

『いじめと現代社会』が読みたい!”です。
http://d.hatena.ne.jp/izime/20070314/p1
TBはこれだけでいけるかな。
内藤先生の本はまだ読んでいませんが、学級制度の廃止に賛同します。

「学級制度の廃止だ。この制度自体は他の国にもあるものだが、日本ほど人間関係がタイトで、一つの空間に同じ集団が朝から夕方まで押し込められる例は他にはない」
http://www.harajukushinbun.jp/headline/408/index.html

ところが日本では、小学校から中学校に上がるときに、その真逆をやってしまうのです。(略)本来ならば市民的な状況にすべきところを、反市民的な、身分的な共同体関係を強烈に強めるのです。
http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20061130-02-0901.html

 中学生たちにとって「いじめ」は「ただしい」。彼らが「遊んだだけよ」というときの「遊び」は、彼らなりの集合的な「生命」感覚にとっては極めて重要なものであり、少なくともやられる人間の命よりは重い。彼らにとって最も「わるい」ことは、「みんな」が共振し合うなめらかな空間に、個を析出させたり普遍性を隆起させたりして、罅(ひび)を入れることである。彼らは人権やヒューマニズムを生理的に嫌悪する。彼らは自分たちなりの「いい」「わるい」を体得しており、それに対してかなりの自信をもっている。彼らは、彼らなりの社会にとっての「ただしさ」(彼らなりの倫理秩序!)にそぐわない「わるい」ことを押しつけてくる大人に対して、本気で腹を立てている。われわれの市民としての善悪と彼らの群れとしての「いい」「わるい」との間には懸隔がある。
http://web.archive.org/web/20020224055355/park.itc.u-tokyo.ac.jp/kiss-sr/~naito/kankei.htm(文字化けしていたが文字コードシフトJISにすると直った)
「いじめ」の社会関係論
http://d.hatena.ne.jp/izime/20070317/p1 こちらに再掲されました。

わたしが一番印象的だったのはすぐ上の文章でした。
摂津堂さん井上さんのところで取り囲んでいじめられたとき*1、彼らの「正しさ」の感覚を支えるものが上の文章で説明できるように思ったのでした。

*1:こっちが喧嘩を売りに行ったのでいじめられるのは当たり前だが