松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「頑張って産んでもらうしかない」は間違いである。

http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20070206/1170762655
国家鮟鱇 - 「頑張っていただくしかない」が問題ならそれは「少子化問題」自体が問題だということ

少子化を防がなければならない」という結論が先にあるのなら、言葉をどう繕ったところで「女性に頑張ってもらう」必要がある。「産む・産まない」の自由があるなら、産む意志のある女性はなおさら3人〜4人、さらにそれ以上の子供を「頑張って」産んでもらうしかないではないか。他にどうしろというのだ?

国家鮟鱇さんは「俺は「少子化を防がなければならない」という考えを支持できない」という立場。わたしはそこまでいかないが、「少子化を防がなければならない」という前提が全く疑われずにすべての論戦が進行していることに大きな疑問を持つ。したがってその点では立場が近い。
しかし上記の論理はゴマカシだろう。
(1)会社が存続するためには社員が営業成績を上げる必要がある。正しい。*1
(2)少子化を覆すためには、女性が一人当たり出生児数を上げる必要がある。
これはどうなのだろう。
(3)少子化動向が覆ったとは、女性の一人当たり出生児数が上がったということである。
これは正しい。
正確には合計特殊出生率と言います。
女性が出産可能な年齢を15歳から49歳までと規定し、それぞれの出生率を出し、足し合わせることで、人口構成の偏りを排除し、一人の女性が一生に産む子どもの数の平均を求める。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%88%E8%A8%88%E7%89%B9%E6%AE%8A%E5%87%BA%E7%94%9F%E7%8E%87 合計特殊出生率 - Wikipedia
 合計特殊出生率が高ければ、将来の人口は自然増を示し、低ければ自然減を示すことになる。だいたい合計特殊出生率が2であれば人口は横ばいを示す。この分かりやすさからこの数値の取り方が選ばれていると思われる。出産可能年齢の男女を分母にすれば、この数字を2で割ればいいだけのことである。
将来の人口の増減を考えるためにこの数字があるのだから、女性数で割っても男女数で割ってもさして違いはない。統計数字の出し方の問題に過ぎない。
ところがこれについて柳沢氏はこう解釈した。

「女性は15歳から50歳までが出産をして下さる年齢。産む機械、装置の数が決まっちゃったと。その役目の人が、一人頭で頑張ってもらうしかないんですよ」

「一人頭で頑張ってもらう」という表現が意味不明である。

「産む・産まない」の自由があるなら、産む意志のある女性はなおさら3人〜4人、さらにそれ以上の子供を「頑張って」産んでもらうしかないではないか。他にどうしろというのだ?
http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20070206/1170762655

国家鮟鱇氏の解釈は上の通り。

一方、
産む/産まないという判断にたいし、国家が「頑張れ」という方向で介入することは正しいのでしょうか? については「正しくない」という判断が圧倒的である。上記アンケート参照。

柳沢氏は日本全体の統計数値を一人頭で何人というイメージで捉えた。これは小数になるので普通はイメージしにくいと思われるが柳沢氏はイメージした。そして、個々人の決断を変換させることによってしか、統計数値を変えることはできないと考えた。
ここには明らかに論理の飛躍がある。統計数値を日本全体で出そうが、「一人頭」で出そうが統計数字の出し方の違いに過ぎない。会社の営業成績を上げるために第一に必要なことは製品の質を上げることであり社員の志気ではない。

しかし、社会環境を整える事により出生率に影響を与えるという政策に対し、国家鮟鱇氏は反発する。

産むという意思決定をするように「洗脳」でもするのか?そうでなければ、要するに、「社会環境さえ整えば、女性は子供を産むのが自然だ・当たり前だ」と決め付けているということではないのか?

明らかに間違った論理である。人間は環境に影響される。それは人間を環境の関数であると機械のように考えることではない。

国家鮟鱇氏は、統計数値を個々人の決断に還元するという柳沢氏の過ちを、少子化対策に反発するあまり、逆の面から踏襲してしまっている。

「頑張って産んでもらうしかない」は間違いである。結果的にそうなることもあるだけのことだ。

*1:しかし実際に問題になるのは社員が営業成績を上げようと意志することであり、それが営業成績が上がることにつながるとは限らない。