松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

治者の自負

南総里見八犬伝』は有名だが長すぎるからか原作を読んでいる人はほとんどいないのではないか。リサイクル書店に岩波文庫の1があったので買って少しだけ読んでみた。
まだ二十歳前だが圧倒的な武勇知略を持つ里見義実が(冒頭部の)主人公。三年間籠城していた城が落ち、御曹司だった彼はたった二人の家来以外の一切を失う。
食べるものさえなくなった主従は漁村の子どもに訴える。「前面*1へわたす船はなきや?」「いとどしく飢えたるに」何かくれないか、と。それに対する“悪太郎”の応答は鮮烈である。

痴(しれ)たる人ことをいふ人かな。打ちつづく合戦に、船は過半借りとられて漁猟(すなどる)だにも物足らぬに、誰かは前面(むかえ)に人をわたさん。されば又此の浦に、汲む塩よりもからき世は、わが腹ひとつ肥やしかぬるに、馴れもえしらぬ人の飢えを救うべき糧(かて)はなし。堪えがたきまでに脾撓(ひだる)くは、これを食(くら)へ。

とあざみ誇って、塊(つちくれ)を掻(かい)取りつつ、投(なげ)かけんとする程に、(略)義実の胸先へ、閃き来れば自若として、左のかたへ身を反らし、右手(めて)にぞこれを受給う。
南総里見八犬伝(一)』岩波文庫 p23

無礼者と刀を振り上げる家来を義実は止める。漁村の汚らしいガキにしてはその言い分に筋が通っているのだ。戦争だから船を借り上げるという(大東亜戦争でも同じだ)だが生産手段が無くなれば漁民が困るだけではなく魚を食べていた庶民も困ることになる。武士には戦争をする権利があるかも知れないが、それは民が最低限生活を再生産できるその〈遊び〉の範囲ないでしかないはずだ。およそ国の根拠は民の再生産にあるとする儒教の根本を、この悪太郎は突きつけてきたのだ。
この悪太郎のあざけり、悪意を義実は真正面から受け止める。それが治者の自負というものだ。


迂遠な話と思われるでしょうが、「渡嘉敷島集団自決」問題を扱う産経新聞の記事を無批判に読んでしまう現在の若者は一体何を考えているのか。社会について考えると言うときその根拠に何を置いているのか。その根拠が何もないから国家主義的情緒に平気で流されてしまうのだ! というようなことを「老人」は考えたのでした。

*1:三浦半島の向かいの房総へ