松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

        正義=自己の脱構築

             正義=自己の脱構築

                             野原 燐
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 9.11にツインタワービルが崩壊した直後に、ブッシュ大統領は叫びました。「戦争だ!」と。それに追従する勢力は多い。だが、その巨大さはまた、それに反対する勢力をももたらす。反対派を便宜的に3つに分けて考えることができよう。

α.どんな戦争も絶対悪である。

β.「国連憲章どおり国連の枠組みでの対応でおこなうべき」という主張がある。
  この内部にも、小沢一郎日本共産党などいろいろな差異がある。

γ.アメリカ帝国主義がまず巨大な悪であり、テロリストは仮に悪であるとしてもより小さな悪である 。
新左翼」などがこれに属する。便宜的に<反帝派>とする。

 以上三派に対し、それぞれ彼らの<神>を想定することができる。

α:WTCビルの死者たち
  (これは戦後最も強力な死者だったヒロシマの死者たちを引き継ぐ)
祭司としてはジョン・レノン

β:国家というレベルをまがりなりにも越えた国際秩序、
  国家を越えた<普遍性>

γ:パレスチナの死者たち
  (最も抑圧されしもの、世界革命の究極の主体に近い)

各派を攻撃したいときには、それぞれの<神>を逆に「・・・にすぎないものを絶対の正義の基準として物神化している」という言説によって攻撃することができる。

αの相対化、例:えひめ丸事件の死者による相対化
βの相対化、例:ブッシュの唱える国際秩序と大差ない
γの相対化、例:ビンラディンタリバンの残虐性、未開性の強調

αへの批判:戦争の否定とは現在の国際秩序の肯定になる。それは国際秩序を変えていく別の方法が存在しない限り、現状肯定主義になる。アフガンなどの最貧国の人々は彼らの責任で貧しいわけではないのにいつまでもそれを甘受し続けるべきなのか。
WTCの死者と、アフガニスタンの死者を比べた場合、わたしたちの生活感覚が前者とのみ通底していることは明らかである。アフガンの死者とニューヨークの死者は対等だ、と言うことは抽象的正しさにしか到達できず、その落差を感傷性が埋めることになる。

γへの批判:自ら日本人として豊かな生活をおくりながら、頭脳の一部でだけ現在の世界秩序を激しく批判している。批判は自らに帰ってくる、それをどこまで受け止める用意があるのか。それ無しの批判はただの自己欺瞞である。

βへの批判:ビンラディンは悪であるとどう言う立場で言えるのか。いまある国際秩序はアメリカ中心のもので、パレスチナやアフガンに中立的に接近できる国際機関はいまだ成立していない。国家のエゴイズムをコントロールできないし、しようとするべきでもない。

最も優れたα(平和主義)とは。
 「私が何年ものあいだ主張してきたのは、我々が今日アラブ人として持っている主たる武器は、軍事的ではなく倫理的なものだということだ。」(サイード)彼は、アラブ人の立場で、こう言う。我々のうちの何人が、あらゆる自爆的な活動を非道徳的で間違えていると非難してきただろうか。見境なく殺そうとする人々の戦闘(それは愚の骨頂である)を一瞬たりとも認めたり支持したりすることなく、新しい世俗的な[原文イタリック]アラブの政治を知らしめなければならないのだ。
 サイード自爆テロを否定する、だがそれは、それを悪とし自らを善とする構図においてではない。(サイードバックラッシュとバックトラック」)
 「9.11大事件に出会って心に地震が起こったほどの衝撃を受けたアメリカの大衆」のその絶望は決して戦争によって癒されるべきものではない。

最も優れたβ(国連主義)とは。
 国連総会は緊急人道援助においては「犠牲者へのアクセスが肝要である」と宣言し、こういう救援を必要としているすべての国に対し、人道的救援活動をおこなっている諸組織の活動を容易にするよう呼びかけた。1988年。アフガン空爆のような「加害者をたたく」のではなく、「犠牲者を救う」ことを考える方がましである。(p152、最上敏樹『人道的介入』岩波新書

最も優れたγ(反帝国主義)とは。
 松下昇氏の「ラセン情況論」と言うパンフに次のような文章がある。(p8右)

事件全体の解明とは別に、オウム関係者の逮捕を歓迎し死刑を当然のこととして予測する全ての人〜位置への批判的立場を持続する。
オウム関係者の行為を審理〜評価しうるのは、かれらのやろうとしたことと対等なことを別の方法で実現していくことを開示している者だけである。オウム関係者の行為にたとえ非人間的な要素が感じられるとしても、現代の非人間的な要素の総体との関連において、とりわけヒトラースターリン登場から現在の世界的な内戦状況における無数の死者の群の重さを視野に入れない判断は、必ず国家によるオウムへの報復(の安易な追認)と真の問題の隠蔽を招く。この社会の全ての矛盾の責任追及との関連なしにオウム責任追求などなしえない。

 ビンラディン一派が犯人であったとして、この文章のオウム関係者をビンラディン一派と読み替えて見よう。オウムの場合と違いわりに素直に納得できる。というのは、国家の恣意性というのは国内だけの視野では極めて見えにくいものなのだ。今回の事件はアメリカなどの掲げる秩序というものが先進国向けのものであり、誰にとっても普遍的なものだとは言い難いと言うことを明らかにした。
 ここで松下は、現在有る国家による裁きを否定している。しかし、革命の大義を仮託できる位置に有ればすべてが許されるといった発想はとっていないだろう。無罪なわたしは存在し得ず、自らの被告人性を切り開いていくことが未来につながる、というのが松下の発想だったように思える。

以上まとめると、
 自分が主張するとき、敵を圧倒しようと焦るあまりつい他者に開かれていない正義を絶対的なものとして強く押し出し勝ちである。そうではなく、自己の弱みをも公開することを避けないようにしてリラックスして進んでいくべきだ。
 各派をそれぞれそれが何らかの求心的価値を持っているはずだ、という予断のもとに判断してはいけない。

以上、わざとではありますが、主張(色分け)のはっきりしない文章でした。
直送版『カルチャー・レヴュー』別冊03号 Nov 2001

http://www.arsvi.com/0m/cr01.htm(なんと立岩先生のサイトより)

 ネットを見ていたら*15年前の私の文章が在ったので再掲しておきます。

*1:「神名龍子」さんに批判的メールしたことがあったなと思い出し、グーグルしてみたら彼女はネット上の大物だということが分かった・・・