松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

反日(続)

   反日(続)


 74〜75年の東アジア反日武装戦線の爆弾闘争に対する最高裁の死刑・無期を含む87年3月の判決の確定後になしうる共闘は何か、と自らの無力への痛苦をこめて模索する人々の先端に、少なくとも最深部に、爆弾闘争を闘った加藤三郎氏がいることを『意見書−「大地の豚」からあなたへ』 (92年1月)はあらためて示している。収録された表現の大部分は前記の87年3月以降に獄中で執筆され、特に同年夏の〈お盆〉 (加藤氏が調べたところでは正確には孟蘭盆(うらぼん)で、元の梵語 ullambana の意味は〈甚だしい苦しみ〉)に執筆された「死者と残された者の間を架橋するために」は、例外的とさえいえるほどの少数派である爆弾闘争グループの中からさらに弾き出され自死した人たちを、第二次世界戦争の死者たちと対比しつつ、それぞれの〈甚だしい苦しみ〉を解決しえない闘争形態や発想を批判しているが、たんなる批判ではなく、自分自身の潜ってきた〈甚だしい苦しみ〉をへた問題点の深化として衝撃的である。
 かれは「転向」したのではなく、「深化」したのだ、という加藤典洋氏の巻末の解説は肯定してよいと考える。加藤典洋氏が『思想の科学』 (86年4月)に初めて加藤三郎氏を紹介的に論じた文章に獄中で書かれた散文詩風の表現が引用されている(このページの右参照*1)が、その中に、 〈私は非日のそよ風〉という一行がある。反日から非日へ…加藤氏にとってはそれが最も必然的であることは了解できる。 (なお、「必然的」はドイツ語でいうと notwendig であり、語源からは〈苦しみ・困難〉Notを〈転倒する〉wenden から来ていることを付記する。)ただし、私は、反日から非日へ…というベクトルを、加藤三郎氏の〈甚だしい苦しみ〉とどこかで微かにでも共通する転倒体験なしに共感の対象にすること、まして他の獄中ないし地下の反日闘争者を批判する道具にしてしまうことには異議を提出したい。前記のベクトルの変化は一方通行ではなく、可逆的な相互通行でありうるし、さらには二つの概念の間ではなく、この世界をとらえ直すいくつもの概念の間で相互に可逆的でありうる。そのように把握しない限り、〈日本〉のもたらしてきた〈甚だしい苦しみ〉の総体への責任は加藤氏の到達した地点を口実としたまま安易に救済されてしまいかねない。反日闘争を必然的たらしめてきた現実の矛盾は持続し、深化しているのだから。また、ベクトルの固定化は反日─>非日であろうと、非日<─反日であろうと、固定化自体において、いずれも実数性の限界を帯びており、そこから飛び立ち、虚数領域をへて自在に、最も必要な戦闘に赴く方法が〈そよ風〉のように求められているのである。加藤三郎氏の表現は、このような拡がりをもって受け止める場合に最もよく生きてくると考える。
 加藤三郎氏の表現の大きい特性は、目の前の直接的なテーマへの硬いメッセージによる暴露や脅迫ではなく、やわらかい幻想の跳躍力による本質への迫り方であるといってよい気がする。〈大地の豚〉という戦線名のみならず、声明文に出てくる〈闇の土蜘蛛 浮穴媛のこどもたち〉や、〈われらが戦闘のいのちをささえるこの地上と宇宙のすべての精霊たちに感謝と祈りを〉というイメージは、これまでのいかなる(爆弾)闘争における表現よりも原初的なコンミューン性に満ち、それゆえ未来的な可能性を秘めている。かれを宗教的な、内面への沈潜による〈転向者〉として否定的に評価するのは的はずれであるのみならず、評価者が支援する人々や、これから出現してくる人々が内包している可能性を破棄するに等しい。


 ところで、92年1月27日の朝日新聞(夕刊)の文芸時評高橋源一郎)は、前記の本に出てくる自死した人々の「しぐさ」を取り出して論じている。(このページの右参照*2文芸時評としては重要な指摘であるし、特に最後の( )の中の数行は巨大マスコミを応用する情報宣伝の試みとしても有効であると考える。ただし、表現それ自体として見る場合、この文章の全体は筆者のテーマ(ここでは「しぐさ」)の一つに、かなり無理をして取り込んでいるだけではないか、という印象がある。時評は、闘争から離脱して自死した二人の「しぐさ」だけを論じているが、加藤氏は、逮捕後に毒カプセルを飲んで死んだ人や死刑執行に直面している人を含めて論じているのであり、この差異は時評の全体に影響してくる。また、時評は様々な文学作品における「しぐさ」を列挙し、かつ「しぐさはある特定の個人に属していてその意味を別の言葉に翻訳することができない。」としているけれども、このように論じることがすでに翻訳、しかも誤訳である可能性に気づいていないように見える。時評が取り上げる二人の死者の「しぐさ」に限って考えても、そこまで追い詰められていく過程の総体における「しぐさ」との関連や自分の距離(行為における距離というより表現の根拠の距離)についての苦痛の感覚なしに論じても無意味であるし、むしろ死者を一瞬の観察の対象としかねない危うさをもつ。死者にとっては、自分のしぐさを意識する余裕などないままの一瞬ごとを潜ってきているのであり、それを強いてくるなにものかの〈しぐさ〉と戦っているはずなのだ。
 かつて菅谷規矩雄は68年1〜2月の現代詩手帳の文芸時評に「アドレセンスの証明」と題して、自分の詩の立場はテレビの映像や共同声明が届かない、路上で乱打され続ける者の苦痛、その孤立への共闘の姿勢である、という趣旨の記述をしている。「(かれの)拒否は身ぶりをつきぬけて、うめきへ、そして了解の身ぶりをひきはがして無言へとふみこんでいるのである。」そして次のようにもいう。「石を投げ、棒をふりあげるものは、そうすることによってデモンストレーションの、そして暴力の身ぶりをつきやぶりつきぬけるところまで達するべきなのだ。」菅谷のいう〈身ぶり〉はブレヒトの概念に影響されてもいるが、前記の「しぐさ」論よりも死者に近く迫っている。「石や棒」が鉄パイプや爆弾に変化しても菅谷の提起はいまなお新鮮であり、この68年の簡潔な時評は、92年の博識ぶりに化粧された時評よりも永続性をもつ。菅谷のいい方を持続すれば、アドレセンスとは「青年期」と定義するよりは、他者としての私を発見しようとしつつも、どうにも生きられない、とうめく時期である。〈日本〉にこの時期が持続している以上、アドレセンスを求め続ける者が提起する場合にのみ〈反日〉論も示唆的でありうるのではないか。
(松下昇『概念集・7 〜1992・3〜』p4-5 より)

*1:クリックすると該当の画像ファイルが出るはず。詩行は下記の通り。

*2:クリックすると該当の画像ファイルがでるはず。