松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「無限大悲が彼女の精神上に現じて」

どうもこの文面から察するに切支丹殉教の聖人伝とは「切支丹殉教の物語とは自分達はかくがくしかじかのごとき被害者である」的な発想から殉教の悲劇を語り継いでいると思っているのだろうか?あれらのエピソードはイエスの受難、あるいは使徒行伝にみる使徒達の迫害の光景に通じるものであるが、それらの記録は被害者意識を持つためではなく、あくまでも事実としてただそういう光景があるということであり、誰かを糾弾したり自分が被害者であることを主張する為に語り継がれるものではなく、「自分達自身も迫害者になる可能性がある」とか、あるいは「自らの信仰のありようとはなにか?」「死を目前として貴方は真理の前にどうするのか?」という善悪の彼岸にあるもっと別のことを考える物語なわけで、だから「沈黙」という遠藤周作の文学が生まれた。それはかなり個人的な内面のことである。
http://d.hatena.ne.jp/antonian/20060301/1141184938

殉教の悲劇、というものの実際の上演を見たとしてなおそのテーマは、「善悪の彼岸にあるもっと別のこと」であるのだろうか。わたしの発想とはまったく違うものだったので、この文章を読んだときびっくりしました。〈善悪の彼岸〉というフレーズに強く引かれる私と、〈糾弾〜憎悪〉それ自体を強化し高めていくことが必要ではないか、と考える私の間には矛盾がある、だろう。

レイチェルは、自分の方に向かってくるブルドーザーの進路に立っていた。ブルドーザーが停まろうとも進路を変えようともしなかったので、蛍光ジャケットを着たレイチェルは、ブルドーザーの前にできていた土と瓦礫の小山の上に登って、直接運転手に対面した。ブルドーザーは前進を続け、その結果、レイチェルは土と瓦礫の山の下に引きずり込まれた。レイチェルの姿が視界から消えても、ブルドーザーは停まろうとせず、完全にレイチェルの体の上を乗り越えた。運転手がブルドーザーのブレードを上げなかったので、レイチェルはその下敷きになった。そののち、運転手はバックした──事実上、レイチェルをもう一度轢いた。」
http://0000000000.net/p-navi/info/news/200603030639.htm

 政治的文脈を抜きにしていうと、これは劇のクライマックスとして完璧なものだ。レイチェルは死ぬが、天使が空から彼女を救うためにはせ参じ彼女の栄光は誰の目にも明らかになる。あるいは(日本的には)彼女は白鳥になって飛びさってゆく。でこの感動は、政治的効果としては、無垢な彼女をためらいなく轢殺したイスラエル兵を生み出したイスラエルという狂信的国家への絶対的批判を生み出す。野原のブログがしつこくレイチェル・コリーという固有名をヘッドに掲げ続けているのも(とりあえず)そのような目的のためである。レイチェルは神と一体化したかどうかは定かでないが、正義と一体化する。
「自らの信仰のありようとはなにか?」人は生きている限り正義と一体化できないわけでそこには必ず落差がある。その落差をリゴリズムで埋め正義に同一化しようとする志向は宗教のものではない、ということなのだろうか。

路傍に急患者がいたとき、介抱すべきだろうか、黙って通り過ぎるべきだろうか。その問いに対して、清沢*1は「無限大悲が吾人の精神上に現じて、介抱を命じたまわば、吾人は之を介抱し、通過を命じたまわば、吾人之を通過するなり」と答える。
(p115『仏教vs.倫理』isbn:4480062874

 内面に注目するとは、レイチェルと兵士が顔と顔として向き合うこととしてこの劇を理解するということであろう。レイチェルもひょっとするとかなり薄っぺらな正義感だけでそこに立っていたのかもしれない。兵士がただ組織の命令でブルドーザーを動かそうとしたのと同様。兵士は命令に従うという薄っぺらな自己身体からはみ出さず、ひと一人を殺してしまう。巨大機械による殺害の容易さは、また良心の痛みから自己を隔ててくれる。レイチェルは死ぬことなどなかったのに「無限大悲が彼女の精神上に現じて」つい殺されてしまったのかもしれない。
 結局、「誰かを糾弾しようとする」ことと矛盾するところの宗教的であろうとすることとはどういうことなのか? 私にはよく分からないのだった。

*1:明治の仏教者、清沢満之