松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

心太虚に帰す

今日はK先生の主催される講座だった。
えっと、何をおっしゃったかというと、覚えているのは。
前近代では、マクロコスモスとミクロコスモスの一致という公準があった。わたしの中に〈神〉あるいは〈天〉(理)がある、とはそういうことである。ところが近代でそれが崩壊する。荻生徂徠は・・・

(ひとは)みな性を持って殊(こと)なり。性は人人殊なり。

という。朱子は「性即理」つまり宇宙原理がわたしの背骨を貫いている、といったわけである。王陽明に至れば庶民でもそうした境地にすぐにでもたどりつけそうな説を立てた。ところが徂徠はそうした普遍が万人に共有されているという説を全否定してしまった。近代は既存の地域(あるいは宗教)共同体の否定であるから、まあ近代的ではある。だが丸山真男が徂徠を江戸思想のチャンピオンと持ち上げたのはやはり一面的ではないか。
 (先生の話から連想した野原の思いであるのでご注意。)
宮城公子氏の本では、まさに普遍が万人に共有されているという「天人合一思想」を肯定的に取り出している。

その中には「心太虚に帰す」と、天と一体化することにより至高の存在となり、高揚する自我意識のなかで、救民のための幕府への反乱を導き出した大塩平八郎のような事例もあった。私は日本の近代思想はこうした土壌の中から、それに規定されてしか生まれないと考えた。*1

*1:p5『幕末期の思想と習俗』