松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

ところで「神の死」ってなんだろう。わたしは親を殺したわけでもないし、大学に石を投げたことすらない(たぶん)。刑事被告人になって裁判というものと長い期間つき合うこともなかった。外面的には順調な人生かもしれない。で「神の死」とは。わたしはたいした悩みもなく生きてきたようだ。
自己の主題をどのようにしても他者に届けようとする祈りが私には欠けている。「神の死」ではない何がわたしの固執なのか?わたしにはやはり何かこだわりがあるのだ。他のことをする自由があるのに一日中パソコンに向きあっている。
 わたしは西欧人ではなくキリスト教に無縁だ。したがって「神が死んだ」といっても何事でもない。国家神道における<皇祖皇宗>なんてことを言ったりしても、たとえ本気になったとしてもそれは一神教的<神>とは段違いにいい加減なものであり、したがって「神の死」に抵触するものではない。

わたしの場合、ドストエフスキーキルケゴールを読んで「神の死」に出会った、と思っている。無神論者が沢山出てくるドストエフスキーはともかくキルケゴールは敬虔な哲学者だ。神の死を導き出すことはできない。そう思われるかも知れないが、そうでもない。例えばキルケゴールは「倫理的なものの目的論的停止」ということを言う。

倫理的なものは倫理的なものである以上、普遍的なものであり、すべての人に妥当するものである。しかし、信仰とは、個別者が普遍者より高いところにあるという逆説のことにほかならない。*1

肉親への愛や法律秩序といったものの制限を端的に踏み越えることを、キルケゴールは示唆する。もちろんキルケゴールは神(絶対者に絶対的に関係すること)を肯定せんがために言っているのだが、神無き地方に育ったわたしは後段抜きに前段だけ受け取ったのだ。そうしたことだったのかもしれない。
神が死んだとは神の衣装が残されそれを自分のものにできるということである。<無限>は自己の内にある。がそれは当然自己にとって他者であり、自己は無限を認識できない。それがあるとは言えないのだ。ただまあ、それがあるとないではだいぶ違う(かもしれない)。例えば君が代が嫌いなのは、私ではなく内なる<不在の神>が、かもしれない。
 <不在の神>とは、結局みんなに対する野原の優越感を保証する装置でしかなく、それこそまさに粉砕すべき物であろう。ともいえるかもしれない。
「神の死」という言葉では今のわたしの問題をうまく表現できないようだ。ではどういう言葉ならいいのか。いまわたしに切実な問題は何か? わたしは私の日常を愛しているようだ。政治的なことを書いたりするがそれに身体を賭けるほどには思っていない。では何が問題か?
この<?>が野原にとって衝撃であるかぎりにおいてしか、「神の死」は野原に於いてないと言えよう。

*1:p379『死を与える』の訳者解説より