松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

憎悪せよ

6/23の朝日新聞社説に、「この地獄を忘れまい」とある。
23日は沖縄「慰霊の日」らしい。戦後60年。戦争体験者は死に絶えつつある。「だからこそこの悲惨な戦闘を後の世代に伝えていかなければならない。」

 沖縄は本土決戦を引き延ばすための「捨て石」とされた。日本軍は住民を戦場に根こそぎ動員した。男性は子どもや老人までが防衛隊に駆り出され、女子生徒は看護隊に組み込まれた。
 米軍は地形が変わるほど、空爆や砲撃を繰り返した。軍隊と住民が混在する島で、米軍が「ありったけの地獄」と呼んだ激しい戦闘が3カ月に及んだ。
 亡くなった二十数万人のうち、住民の犠牲者が本土からやって来た兵士を大きく上回る。それが沖縄戦だった。
6/23朝日新聞社

 住民の悲劇は、敵の米軍によってもたらされただけではない。
 ガマと呼ばれる洞穴に逃げ込んでいた住民が、敗走してきた日本軍に追い出され、砲弾の下をさまよった。
 日本軍は住民が捕虜になることを許さず、「敵に投降するものはスパイとみなして射殺する」と警告していた。実際に、米軍に連れ去られて帰された少年と農民が日本兵に殺されるなど、スパイとみなされる住民が相次いだ。
 そんな中で、米軍が上陸した慶良間列島などでは、追いつめられて肉親同士が殺し合う「集団死」が起きた。慶良間列島だけで犠牲者は700人にのぼる。
 沖縄キリスト教短大の学長を務めた金城重明さん(76)はその生き証人だ。母親と妹、弟の命を奪った。
 「『鬼畜米英』によって耳や鼻をそぎおとされ、女の人は辱めを受けると信じ込まされていた。それよりは、自らの手で愛する者の命を絶つことがせめてもの慰めという心理状況に追いやられた」
 この世の地獄というほかない。(同上)

殺された沖縄住民は犠牲者である。誰の?という問いにわたしたちは「戦争」、と戦争を擬人化して答えてきた。
ヒロヒトも東条も「地形が変わるほど空爆や砲撃を繰り返す米軍」も、その罪を検証されることはなかった。
めでたいことである。