松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「あたりまえ」が支配する帝国

 国民だれもが納得する(すべき)理念において、愛国心が要請されるというのはフランスやUSAなど多くの国においてあることです。一方愛国心の名の下に権力者への一方的かつ全面的な強制が行われることもある。わたしたちの近い過去を、そのような全体主義だったとみなすかどうか、が論者の立場の違いになる(のでしょう)。
 さて、「日の丸君が代に格段の理念は存在しない」、という当局の見解を批判したいわけです。*1理念の不在をどう批判したらいいか?

 からくににして道という物も、其の旨をきはむれば、ただ人の国をうばはむがためと、人に奪はるまじきかまへとの、二つにすぎずなもある。……もとよりしかきたなき心もて作りて、人をあざむく道なるけにや、後の人も、うはべこそたふとみしたがひがおにもてなすめれど、まことには一人も守りつとむる人なければ、国のたすけとなることもなく、其の名のみひろごりて、つひに世におこなわるることなくて、聖人の道は、ただいたづらに、人をそしる世々の儒者どものさへづりぐさとぞなれりける。……

 道というのは儒教の基本理念です。宣長儒教の理念を批判し別の理念を建てるのではなく、理念という物それ自体を否定してしまうきらいがあります。道とか偉そうに言っているが要は「他国を奪う」「自国を防衛する」に帰着すると。醜悪な心を以て作った欺瞞的な「道」にすぎない、と。

 かくてその聖人どものしわざにならひて、後々の人どもも、よろずのことを、己が智(さとり)もておしはかりごとするぞ、彼の国のくせなる。……

されど物のことわりといふものは、すべてそこひもなくあやしき物にて、さらに人の心もてうかがひはかるべき物にはあらねば、しひてあきらめしらんともせず、よろづの事はただ神の御はからひにうちまかせて、おのがさかしらを露まじへぬぞ、神の御国のこころばへには有りける。

人智を以て世界を規定してしまうという発想自体がいけないのだ、と。すべて、神のはからいにまかせるべきだと。

故(かれ)皇国の古へは、さるこちた(言痛)き教も何もなりしかど、下が下までみだるることなく、天の下は穏(おだひ)に治まりて、天津日嗣いや遠長に伝はり来坐り。さればかの異国の名にならひていはば、是れぞ上もなき優れたる大き道にして、実(まこと)は道あるが故に道てふ言なく、道てふことなけれど、道ありしなりけり。そをことごとしくいひあぐると、然らぬとのけじめを思へ。言(こと)挙げせずとは、あだし(異)国のごと、こちたく言ひたつることなきを云ふなり。*2

 しかし、「道」を否定する言説というものもよく考えると矛盾に満ちており自立できるのかどうか危ういところがある。つまり宣長は明らかに、他国(からくに)と自国を対比的に取り上げ、他を否定し自を肯定するために理屈をこねている。その理屈というのが、他国には「道、さかしら、言説」があり、自国においてはそんなものがなくともちゃんと治まっていた、というもの、であるわけである。しかし、宣長のそれもさかしらであり言説であることは宣長以外には明らかである。
 現在のプチウヨも執拗に「アサヒ、サヨク」を否定する。否定ではなく素直に自己の理念を語るべきだろう。

日本的政治の根本は神勅によって万世一系天皇が統治することに存する。而してこれは宣長によれば、単なる理念ではなく、歴史的に実証されたる、また日々実証されつつある事実である。(丸山真男宣長論の一部より)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~MARUYAMA/tokugawa/norinaga.htm

 理念の代わりにあるものが、「万世一系天皇」という事実である。1945年の敗戦においてヒロヒト氏が退位しなかったこと、そのことは万世一系という理念にあらざる理念を現在まで延命させている。

 わたしは日本人である*3。日本人である限り、日本の伝統を負っているそのことに誇りを持つべきだ、という人がいる。わたしはその断言に半分は賛成である。ディズニーランドなんぞでちゃらちゃらせずに宣長を読みたまえ? ただ「日本人である」ことの自明性から、国家国旗を肯定し、愛国心を肯定し、などなどという自同的論理の連鎖。これは実は、宣長に起源する特殊な言説のあり方である、といいうる。

*1:もちろんこれは今だけの言表であり、教育基本法改悪が通れば、「愛国心」の注入が大々的に行われるのでしょうが、それはそれで別の問題です。

*2:以上宣長からの引用は、子安宣邦『「宣長問題」とは何か』isbn:4480086145 のp61-66からの孫引き。だいたい「直毘霊(なおびのたま)」

*3:というのが本当かどうか?わたしは本当は日本生まれの韓国朝鮮人か中国人だがカムアウトしてないだけかもしれない、顔を知っている人でも区別はつかない