邪悪な愛国心と正しい愛国心
# swan_slab 『hal44さんこんにちは
ちょっとよくわからないのですが、かりに愛国心が信仰心と同価に扱われ、それは魂の救済の問題だと捉えられたとします。しかしそうだとしても、ロックの制度制度の構想によれば、統治機構は世俗的事項にのみ関わると考えられていますから、たとえどんな形で愛国心を表現しようとも、それが社会公共の利益を害さないかぎりにおいて、寛容に扱わなければならないという理屈になると思います。そして、もし仮に愛国心の涵養という問題が、公共的関心事項ではなく個人の良心の問題だとするならば、世俗的であるべき公教育(憲法20条)の場において、愛国心教育は忌避されるべきということになるでしょう。
しかし、愛国心とは、自発的結社によってさらに自己実現を目指すべき個人主義的な意味での信仰の問題と同視しうるかといえば、むしろ、共同体(アソシエーション)加入の契約(17世紀ニューイングランドにおいて観念されていたような契約)とパラレルなのではないかというふうに思います。恐らく、日本においてロックの議論が当てはまりにくいのは、ロックが前提とした宗教的個人主義と宗教的多元社会を日本人が拒絶してきたからでしょう。極端な話、「一億総〜」という形で、くに全体がロックが寛容の対象と見定めた結社(アソシエーション)と同視しうるからです。かりにロックの市民社会論が日本において流通、制度化されていたとしても、滅私奉公を是とした日本の社会では、戦前の天皇制はあのように機能した可能性はあると思います。
これを乗り越えるには、フランス的なドグマの革命で用いられた手法、すなわち既成の権威(カトリック)を、特定のイデオロギーの普遍性(自明の真理として事実性のなかに埋め込む、ある種のエッセンシャリズム)を強調することによって打ち砕く、大陸法的なやり方も適合的なんじゃないかという気がします。
しかしその場合、社会契約によってアイデンティファイされる個々人と国家との関係を常に再確認する教育システムが求められることになるでしょう。「我々は理念によって国家に集っているのだ」ということを再確認しなければ普遍的正義の自明性が崩れる恐れがあるからです。この功罪はフランスの近現代史をみればある程度、察することができると思います。
もうひとつは宗教的、文化的な多元的社会を目指すやり方。
日本はどの方向に舵をとるべきでしょうか。
hal44さんは>個人的には愛情の対象として国家を選ぶというのは、アニメ美少女でオナニーするくらい虚しい行為だと思うのですが>とアイロニーを表明します。
その「気づき」は、また別のアイロニーによって「虚妄」とみなされるかもしれない。自己の認識したアイロニーは、表現の自由市場において淘汰され社会に蓄積されない知恵かもしれない。しかし、「現時点ではこう思う」というアイロニーを人々が出しあっていかなければ、真理には到達しない。そのためには自己のアイロニーを主張し、他者の主張するアイロニーを正しくないという機会を十分にもたなくてはならない。それを目的論的に眺めれば、民主主義に資するからだということなるでしょうけれども、動機の面からとらえると、ウェーバーのプロテスタントの倫理じゃありませんが、個人の内的な自律性と自己実現の要求を不可欠の要素とすると思います。
例えば、クェーカーの教義は特定のドグマに毒されている、あの教派の洗礼の考え方はおかしい、あの集団のなかにいると不幸になると誰がが「気づいた」とします。しかしロックは、そんなのはある意味で自己責任だというわけです。ロックはそれ以上のことはいわない。しかし、この個人の尊重の考え方が前提になくては民主主義は成立しえなかった。私見ですが、ロックの寛容書簡の読み方としては、現代の民主主義と人権に関するエッセンシャリズムにどの程度の射程をもっているかという観点から読むようにしています。
>日の丸や君が代によって「愛国心」なるものを刷り込まれることにより、そのような「愛国心あふれる」人間に成る可能性が大である文化的構築物としての人間主観>hal44さん
についてちょっと雑然と感じることですが、愛国心というのは、結局、共同体の自己保存に関する態度ということだと思うのです。フェチということではなく。そこで「正しい愛国心」と「不正な愛国心」という本質主義的なものがやっぱり観念されざるをえないのだろうか、そんなことを悩みます。刑法学でいう行為無価値的な発想ですが。
例えば、私たちが自ら、イデオロギーについて社会学的なアイロニーを認知しえた(気がついた)とします。例えばですが、かつてひとびとは軍国主義イデオロギーに突き動かされていた、とかいったことです。そしてそのアイロニーは実質的正義によって動機付けられるとします。その場合、戦意高揚を煽る新聞を毎日みながら、頭に日の丸のハチマキをして工場動員されたひとたち、日の丸をふって兵隊を送り出したひとたち、あるいは戦争の早期終結と被害の最小化という経済的合理性を信じて日本に空襲を行った兵士の価値観についてどう考えるべきでしょうか。これは野原さんの問題意識ともつながると思います。
ひとつのやり方は、戦後のドイツでみられたやり方で、事後的に、実質的正義の立場から、過去の”間違った観念や価値観”を徹底的に糾弾し尽くすという方法。例えば当時、ナチスドイツで、合法的だと思い、愛国心から夫の叛逆を密告した妻の行為を事後法によって断罪した。戦後ドイツにおいては、自然法の再生というスローガンのもとに積極的に罪刑法定主義(これも一種の自然法)が無視された経緯があります。この自然法への回帰は、日本国憲法にも色濃くみられ、国民主権は「人類普遍の原理」であり(前文)、人権は「侵すことのできない永久の権利」11条、97条とされ、憲法的価値観の相対化を拒絶します。
これは法実証主義への反省の意味をこめていると理解されることが多いのですが、しかし、ナチスの犯罪は、法実証主義的配慮から自動的に行われたというよりも、当時信じられていた実質的正義(あるいは科学)の観点から虐殺が正当化された側面があります。また日本を空爆せんとするアメリカの兵士たちが地上にいる無辜の人たちの姿を想像し、自らの不正な行動に「気がついた」としても、自らの不正と折り合いをつけることができたでしょうか。
実質的正義の見地から、「悪い行為」を断罪するというやり方の功罪についてもう少し考えていきたいと思っています。邪悪な愛国心と正しい愛国心は観念しうるか。この点について、野原さんやみなさんはどう思いますか。』(2005/03/21 16:16)