松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

君が代問題は大きな問題なのか?

ロックの生きたヨーロッパの17世紀は、宗教改革の余波のうちに、信仰の問題が直接強烈な政治的意味をもついわゆるコンフェッショナリズムが常態化した時代であった。この世紀に生じた政治的紛争・内乱・革命が、ほぼ例外なく宗教問題に起因し、あるいは連動していた事実がそれを示している。「政治的統治」とともに、「寛容」や「信教の自由」が17世紀最大の「論争的概念」となったのは、政治と宗教とが循環するそうした事態のゆえであった。(『ジョンロックの思想世界』加藤節著 P127)
http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20040525#p1

スワンさんは20040516以来、ジョン・ロックの「寛容書簡」を引きながら政教分離について詳しく考えておられる。

  1. 西欧17世紀というと遠い世界のようだが、「寛容」や「信教の自由」というものは「近代国家の原理」として重要だ。
  2. 戦後日本にとっては、「寛容」や「信教の自由」の問題は、「戦前の国家神道的なもの」からの自由 の問題として現れる。
  3. 君が代・日の丸」問題は、些細な問題のようだが、わたしたちの国家(state)が、「信教の自由」「寛容」を認めるかどうかの問題だ。わたしたちの憲法がすでに獲得したはずのその原理は、わたしたちがぼんやりしているので侵されつつある。

以上のように考えるべきなのか?

もし、為政者の権限内にない事柄〔たとえば、国民あるいは国民の一部が別の宗教を受け入れ、別の教会の礼拝や儀式に参加することを強制されるといった事柄〕について法が定められるならば、そういう場合には人々は自らの良心に背いてその法に束縛されることはありません、なぜなら、政治的社会は別の目的のために、ただ現世における事物についての各人の所有権を確保するためだけに、造られたものなのですから。
各個人の魂と天上のことについての配慮は、国家に属するものでも、国家に服従せしめうるものでもなく、全く各個人自身に委ねられているものです。(『寛容についての書簡』Jロック 中央公論社P388)
http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20040622#p1

ここで、君が代は、「為政者の権限内にない事柄」であるかどうか?
確かに「国歌は、君が代とする。」という条文はある。「3 入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。」という指導要領もある。「国歌斉唱」によって国民の意識を斉一化しようとする欲望がそこにある。小学校とは勉強をするためと、学友と共に遊んだり軋轢したり何かを成し遂げたりする空間であろう。「国歌・国旗」とは本質的関わりを持たない。にもかかわらず、数十年前から文部省の一部官僚は国歌国旗問題を指導要領において大きな比重をかけて強調していた。その背後の欲望は何なのか?
君が代日の丸は、「各個人の魂と国家」をむすぶ重要なメディアである。そのことへの深い確信が、文部省の一部官僚にはあったのだろう。そう考えると、ロックの名に於いて「君が代斉唱」に反対することは可能だろう。