被害と加害
南京虐殺にしても慰安婦問題にしても、無能な軍上層部が最前線に苦しい戦闘を余儀なくさせた上で起こったものなのだ。最前線の兵にとっては、心の奥底では戦争の「被害者」であるという意識があるかもしれない。その意識が自分「達」の「加害」を認めることが困難になる。
そういうねじれた意識がどこに持って行かれるか…それが「国の為に頑張った、国を守るために戦った」という「誇り」なのではないだろうか。そして、3月5日のソロモン島の兵士の件に見られるような、奇妙な軍隊論理と連帯感もその「誇り」をことさら示すことに拍車をかけてはいまいか。
http://d.hatena.ne.jp/index_home/20050310#p2
「被害者」という言葉、わたしはこれまでの文章で無自覚に使っていて、読者に分かりにくかったかもしれない。南島の兵士は被害者だった。それは間違いないと言っていいと思う。ただ問題はそのとき加害者は誰だったのか、ということで、軍の指導者が加害者であったと考えるべきでしょう。*1
「「国の為に頑張った、国を守るために戦った」という「誇り」」なんてものは、実際に現地で飢餓線上をさまよった肉体感覚を裏切ってしかでてこない偽りの物なのではないのか、というような気がする。
「加害者である」という事実。それを認めまいとする圧力が強まっている。もう一度60年前の自他の体験の細部に接近しようとするところからはじめてみるしかないのか。