松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「<ハンガリー革命>−−<六甲>」

私自身は、この不可解な歴史的事実を< >とよびうる根拠と資料をいくらかもっているが、、いま強調したいのは次の諸点である。
< >に立ち上がったものも、鎮圧にあたったものも、自分が、いまなにをしつつあるのか分からなかったこと。この歴史的事実をどのように判断するかによって現代史の評価軸が転倒してしまうこと。そのような契機をはらんでいるのに、もしも放置しておけば事実の集積の中へ埋没していくこと、などである。

この文章は“<ハンガリー革命>−−<六甲>”という松下昇の1966年の表現の一節である。*1< >は、<革命>と元はなっていたものである。< >という記号は松下においては、その中に別の記号を入れてみる場合の変移を量るという問題意識とともに用いられるものなので、元の文脈から離れ、新しい言葉を入れてみる。わたしたちがこの間ずっと囚われてきたイラク人質問題を考える。<誘拐>あるいは<内乱>という言葉を代入することができるだろう。

ファルージャ*2が含む戦車のような重さと<インターネット>が含むタンポポの綿毛のような軽さ−−その婚姻の時が迫っている……と私はふと考えてみた。革命者と制作者は互いに結合されつつ論じられているとは知らずに存在しているとしても、私に<ふと>そのように考えさせる力が<ファルージャ>にも、<インターネット>にもあることは確かなのだ。両方を結ぶ関係=共通点をあげてみよう。*3

○ 固有の時間、空間に規定されながら、それによって逆に、普遍的な時間、空間へ出ていく契機をつくりだしている。
○ 敗北、未完成という事態が、そのために一層あきらかに、状況や存在の危機を告発している。
○ 意識の平衡が転倒するほど現実過程の中でたたかい、模索しているときに、はじめて手に触れてくる。
○ はじめのヴィジョンが、何かの力によって、みるみる変移して自分を追い越していく怖ろしさを当事者に与える。
○ 対象を変革する(表現する)だけでなく、変革する(表現する)方法そのものを対象の中に加えていく必要を感じさせる。

 銃を手に立ち上がることは悪だ、と私たちは教えられてきた。だがしかし、<誘拐>は本当に悪だったのだろうか。誘拐は被害者を拘束し、そのことにより日本人の関心をファルージャに引きつけることに成功した。銃撃の報復として居住地区の破壊を行う米軍の行為への疑問を導き出した。ある客観的事実がまずあり、それが中立的なメディアによって報道されるだけという図式に安住することはできなくなった。何かを知ろうとすると<その場>へジャーナリストが出かけていく必要がある、だかしかし出かけていくと彼/彼女は、米軍によって、あるいはイラク人によって狙撃あるいは誘拐される恐れがある。メディアは中立ではあり得ない。わたしたちも、与えられた情報をただ信頼して受容していればよいということでは全くない。「はてなダイアリー」において顕著な事実は、例えばファルージャという文字列を書き込むことにより自動的にリンクされ、自分の頁がデータベースの一部になることにより、他者の頁との対話が不回避的にもおこり自分の頁が増殖していくということであった。わたしが日記を書くという能動的行為をしないとあるファルージャについての情報は流れてこないといった関係が確かにある。それはわたしがすでにイラク情勢について持っていたイメージが転換を強いられる度合と関連している。ファルージャについて知るためにジャーナリストが必要というのではなく、知る方法そのもの、つまりいままで黒子として意識されることのなかったジャーナリストたちの身体こそが中心的な報道対象となったという転倒。そして後者によって、わたしたちが知ることを欲していなかったファルージャ情勢は広く知られるようになったという逆説。こうした逆説が教えるものは、家に座っていればメディア(テレビ)が真実を運んできてくれるし、運んでこないものは私たちが知るに値しないものだというわたしたちの常識の否定だ。

 また、現代史の時間の構造にくいこんでいる<ハンガリー革命>をどのようにささやかな情念のざわめきと置換してもよい。私たちは、生ぬるい怠惰な世界の中で極限まで生きぬこうとするとき、一瞬ごとに<革命>と触れあうことになるのだから。
 つまり、現実から逸脱しているようにみえるこの<幻想性>は、世界最初の反戦ストや新しい創作理論や、やさしい愛などと、必ずどこかで交差し、それらを支え、おしすすめているのである。

松下昇が< >とともに私たちに差し出すもの、は何か?現実の生というものは、むしろ一瞬ごとに< >(未知の位相)と触れあうことにより、非存在〜存在しているのだ、と松下は主張する。もちろんそれは、「意識の平衡が転倒するほど現実過程の中でたたかい、模索しているときに、はじめて手に触れてくる」ものである。わたしたちが現在観察しているのは「自分は無罪だと立証したいと思ってあがく者は逆に自らの有罪性を立証する」という逆説だろう。彼らは< >をあまりににも敏感に拒否しようとしてドツボにはまる。

*1:『松下昇表現集』p10

*2:http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/ 益岡賢氏のページにあるいくつもの文章を参照してください。

*3:ハンガリー革命><六甲>の代わりにファルージャとインターネットを入れてみた。