松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

アンティゴネ的に生きざるを得ない

アンティゴネについては、死んでしまった少女にすぎないのに汗牛充棟しており、読めば読むほどわからなくなる。
アンティゴネー的行為だって? もうけっこう!」と書かれた、http://d.hatena.ne.jp/gyodaikt/20040329
北田暁大氏の文章を読んでわたしは逆に、アンティゴネっていいじゃん!と思ってしまった。

 周知のようにソフォクレスの戯曲の主人公アンティゴネーは、テバイの王クリオンの命=法に背き、兄であるポリュネーケスを埋葬し、生き埋めにされたまま死を迎えることとなった人物である。(略)重要なのは、彼女が「法」への違背を倫理的「悪」として認めることなく、そして自らの利害を顧みることもなく、あたかも内なる定言命法につき動かされるようにして、兄の埋葬という行為に及んだ、ということである。つまり、アンティゴネーは、(1)自己の利益を時間的に不偏的な観点から考量する小賢しさを持ち合わせておらず(つまり、たんなるエゴイストではない)、また、(2)「自らの善(悪)」と「世界の善(悪)」のズレを認めることのない、超人的存在なのである。

 超人というか英雄ってそういうものでしょ。アンティゴネは法に違反する。法への違反は倫理的悪だ、という一つの規範がある。ただそれは昔も今もそれほど内面化されているわけではない。軽微な法への違反は、あたりを見回し警官がいなければ遂行される、ことも多い。悪ではなく罰によってコントロールされているわけだ。アンティゴネは悪によっても罰によってもコントロールされない。アンティゴネは行為してしまい、それが事後的に罰せられるだけだ。アンティゴネを突き動かしたのは<内なる定言命令>のようなものなのか。そうも言えるがわたしの理解は少し違う。

だが、だからといって、アンティゴネー的倫理は、他の実定的道徳の倫理的優位性を判別する規準として機能する、ということにはならない。
それはそうだろう。
アンティゴネーは根源的にあらゆる道徳的ルールの有意味性を破砕するものなのだから。

それは明らかに違う。アンティゴネがただの無法者であったなら拒否されて終わりでしょう。アンティゴネは気高さと強度を持つ。そして気高さと強度を持たない“普通の犯罪者”であっても、それが事後的に<情況の核心を突破した運命としての犯罪>と評価しうる時、<ある>道徳的ルールの有意味性は破砕される。
わたしは下記に書いた“ナターシャさん”を思い出したので書いみました。
http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/Tokyo3.html#nata1

もちろん少しはジジェク、北田に近づかないとあの文章を読んだとは言えないことは理解しています。勝手にトンチンカンな引用をして失礼しました>北田さま。