松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

道義的責任を定義、

中道右派 中道右派 『>道義的責任を定義、提出する主体を、きみたちが一貫して用意できない、かろうじて成立したものを潰してしまうのが問題なのです。かわいそうな日本!

その点は、一部同意します。あまりにも外交が下手すぎる。日本にも、国際的な赦しのコンセンサスを作り上げたヴァイツゼッカーに匹敵する力量の政治家がいなかったことが悔やまれます。
私の考えでは、第三国の研究機関を複数入れて、事実関係及びこの問題の発生から発展までの一部始終を徹底調査し、その結果に基づいた国会決議をすべきと考えます。
調査のための基金が設立されたら、喜んで寄付に応じたいと思います。

>「区別を、まずはよく考えてみることをお勧めします」は議論の放棄ですね。よっぽど自信がないのか。

いいえ。自信はあります。
あなたにも基礎的な知識をもってもらってから、無駄のない有益な議論をさせていただきたいと考えております。』

中道右派 中道右派
>「生き延びるための思想」読後メモ

>なかった派と議論するためにはどうしても、吉見さんたちの議論に倣っていくしかないような気がします。

それは、一部正しく、一部誤りです。
上野千鶴子氏は上記著書で、この問題の本質を以下のように一面では正確につかんでいます。引用サイトより抜粋。

『多くの兵士たちは日記や回想録のなかで、「慰安婦」との接触を、少しも恥の意識を持つことなく記述していたからである。パラダイムの変化のおかげで、彼女たちの経験は「軍隊売春」から「性奴隷制」へ、すなわち軍隊によって組織的に継続された強姦へと、見方が変わったからである。』

これは、行為時及びその後しばらくたった回想録記載時においてすら、慰安婦の存在は法規範上は犯罪ではなかったことを認めているのです。
それが、その後の女権伸長に伴って、90年代以降の現代に行われてたら犯罪じゃないの?という法意識になってきたという、むしろ実態に合致した認識を示しているのです。
しかし、この実態に合致した認識を前提とすると、法の不遡及の原則(行為時法適用の原則)により、日本の国家責任は否定されてしまうので、補償請求の場面では負け筋になるのです。
そこで、吉見氏らは補償請求を肯定するために、(無理を承知で?)行為時においても違法であったことを何とか説明しようとして、国際法の少数説を引っ張ってパッチワークを始めたため、法律家から笑われてしまうのです。』

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20070324

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