松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

数分他人のブログを読んで分かる!こと

ネットでちょろちょろ、数分他人のブログを読んだくらいでなーにも分かるはずないだろ、という罵倒には十分根拠がある。
しかしその逆の面だってあるのではないか、という提起

noharra 『 そうですね。Panzaさんのいわれる通りですね。「その言葉を使っちゃいけないのか?」と問いを立てると議論になり、使う側には使うだけの理由があり紛糾してしまう。そうではなく、ただの感情論ではなく力を持った(おおげさに言えば関係の絶対性からの声に近い)発言には素直になるという態度を学びたいと思います。
「だから初めてブログを数分読んだからと言って何が分かるものでもない。」というのもまあ半分は嘘。1分でも数分でも、インターネット越しでも、かなり微妙な問題も分かってしまうことはあるものですから。
 CLさんへ。 わたしは根が無作法者なんですが、(良い方に)誤解してもらっているようですので、これ以上言いません。まあぼちぼちよろしく。』(2005/12/07 21:26)
mojimoji 『何か、一発で分かってしまうこと、ってありますよね。何かが「十分に」分かったということではないのですが、しかし、分かってなかったことを発見させられて、認識枠組が大きく変化するのを感じるというか。そういう瞬間。
自立生活してる重度障害者に初めて遭遇したときもそうでしたが、sidoさん(とその近くにいらっしゃる施設出身者の人たち)のブログを見たときにも、何かが物凄い勢いで分かった感じがしました。スゴイですよね。』(2005/12/07 23:27)
noharra 『mojimojiさん
 sidoさんたちのブログを(アンテナを通して)紹介してくれてありがとう。
「何かが物凄い勢いで分かった感じがしました。スゴイですよね。」とわたしも語れるようになりたいと思います。彼らのブログの(向こうにある/なかにある)現実はあまりに重い。だが(わたしの力量には余りに重い)と結局のところ切り捨てるのではなく、「分かる」というその思いを大事にすべきなのでしょう。
CLさんもここだけで分かったとか言ってないで、読んでください。彎曲を覚悟しなければ触れられない真実がそこにあるかもしれないから。』(2005/12/08 06:02)

http://d.hatena.ne.jp/noharra/comment?date=20051203#c
コメント欄より

神さま、助けてください。

結城浩さん という方が次のように書いて居られる。
(まあ信仰者ならだれでもこんなふうに、言うものなのかもしれないのですが。)
<祈り>というのは生活のなかにだけあり、自分の心や身体から降りてゆくことが価値でありその逆ではない、というのは興味深い。
自我を捨てること=共同幻想に己を捧げること、と捉えて否定するのが戦後の常識だった。だが本来、祈ることは自我を捨てることではあっても、共同幻想に己を捧げることではない。
ところで神が居なくとも、わたしたちは<祈り>を学ぶべきなのか?そうかもしれない、と私は思う。

http://www.hyuki.com/dig/prog.html
プログラミングを身につけるには / 生きた信仰の第一歩

聖書も同じだ。
いろんな聖書の解説書や聖書に関する本が売っている。
教会でも牧師さんが聖書の講解説教をやってくださる。
けれどもそれだけではだめだ。
自分で聖書を読み、自分でよく理解し、自分の口で祈り、
自分自身の生活の中に適用していかなくては、
聖書は身につかない。
自分で適用しようとしてみなければ、
聖書の厳しさも、神さまの愛も本当にはわからない。

自分の心の中の深いところは他の人にはわからない。
自分の心の奥深いところ、
誰にも見せず、誰にも開いていない扉を開くのは
その人本人にしかできない。

 祈り方もわからず、聖書も読んでいませんが、
 自分が自分の力ではもうだめだということはわかります。
 神さま、助けてください。神さま、ゆるしてください。
 イエスさま、どうぞ私の心に、今、来てください。(同上)

結城浩さんて

今読んでいた、「結城浩Wiki入門」isbn:4844319159ゃないか。
今(1/28)に気づいた。日本に数あるWikiクローンの母体となったYukiWikiの作者である。YukiWikiの直系のPukiWikiを私も一週間ほど前から使い始めたばかり。まだどうなるか分からないが、非常に自由で使いやすいことは確かだ。
IT関係者はみなホリエモンのように敬虔さから最も遠い人ばかり、というイメージを持っていました。そうじゃないのですね。(1/28記)