松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

概念集(2への序文の位相で)


概念集(2への序文の位相で)


 概念集・1を刊行してから、次のようなことが気になった。項目別に記すと、
一、このパンフに現れている項目群の集合の排反領域は何であり、排反領域の可能な限り広くを深く占拠していくにはどうすればよいか。
二、これまで人間は〈概念集〉にどこかで対応する試みをさまざまにおこなってきているが、これらの言語表現や表現総体の構造は、どこへ何かっているか。
三、私たちの発想や存在様式が変換する瞬間に最も力を及ぽすもの、そして私たちの発想や存在様式の中に最も長く残るものは、概念ではなく反概念としての像なのではないか。


 これらのヴィジョンが、項目とか言葉になる以前の場所でゆらめいていたのを主要因として、概念集・2〜の可視的な作業の殆ど進行しない段階が持続した。
 いま、やっと、前記の三項目に(夢の中で模索したり、メモに記したりする水準を飛び越して)いきなりワープロに〈書く〉という作業によってたどりついているので、これを手掛かりにして、半歩でも先へ進んでみよう。この〈半歩〉性は、すぐに記述しうるものではないが、それと共に、常に渦まき、表象化しているものでもあるから、ここでは二月に打っておいた〈概念と像の振幅〉を、次ぺージに模索の開始点として掲げておく。


註一、〈概念〉の像よりは〈概念集〉の像に、〈私の〉よりは〈表現情況の〉重力が集中していると考えている。また、概念と像は、静止的に対応させて関連をとらえるよりも、時間(音を含む)を媒介する領域に入りこむ、ないし、その領域を突き動かそうとする過程で関連をとらえる方がよいのではないか。(〈瞬間〉の項目参照)
二、〈概念と像の振福〉で二月に予感していた…集(映像集)は、五月の〈神戸大学闘争史…年表と写真集〉としても現れており、また、これまでのパンフ群が帯びている放射性の時間から包囲性の時間を発見して、六月に批評集・α続篇を構想したのは、時間の像と概念を往還する試みの一つでもあった。
三、これまで刊行してきたパンフ群は、それぞれの位相で他の系列と相互に包括しあっている。(計論過程のレジュメ等は希望者に配布可能)このような関係を強いる力を逆用して、概念相互、像相互、全ての試み相互の関係の追求をしていきたい。


           〜一九八九年七月〜        松下昇
(p1『松下昇 概念集・2』 〜1989・9〜)

われあり、われらあり。

Ich bin. Wir sind. Das ist genug.
Ich bin. Aber ich habe mich nicht. Darum werden wir erst.
(p7『ドイツ語の本』冒頭)

これはあるドイツ語初級教科書の冒頭の例文なのだが*1
、ドイツ語なので全く分からない。Ich bin. Wir sind.とは英語の「I am.We are.」のようだが。
genug=enough(英語)=assez(仏語)のようだ、google翻訳では。十分に、ということか。

I am. We are. That is enough.
I am. But I do not have myself. Therefore we become only.(英語)
Je suis. Nous sommes. C'est assez.
Je suis. Mais je ne m'ai pas. C'est pourquoi nous devenons seulement.(仏語)

「I am.We are.それで十分」ということか。

 Das ist genug.という場合の〈genug〉は、たんにこれ以上は必要ないといい切っているのではなく、むしろいまは、これを最低限の条件として出発するのだ、という一種の覚悟が内包されていると思われる。次の Darum werden wir erst.の〈erst〉は、個々の〈私〉が自らの存在を対象化しえていない不確定さと同じ度合だけ、関係性としての〈私たち〉におしやられつつ、〈はじめて〉相互の構造に気付く、というニュアンスを帯びてもいる。 (たぶん松下昇 p3「正本ドイツ語の本」)

Ich bin. Wir sind. Das ist genug.はエルンスト・ブロッホの『ユートピアの精神』という本の冒頭。われあり、われらあり。とは、どんな場合でもそれだけは言えるというわれわれの表現や行為の土台である。*2ところがブロッホはそれを、果てしない努力の果てになお辿り着けないユートピアの青い鳥、でもあるかのように提示している。*3
「われあり、われらあり。」がユートピアの青い鳥であることは、最近のプチウヨの諸君を見てるとよく分かる。彼らはわれであるためには、是が非でも「日本あり」を成立させなければならず、そのためにはアサヒ、中国をはじめとするあらゆるもの*4に罵詈を投げかけ否定しなければならない。彼らはこっけいで有害だ。しかし、
「われあり」のために「われらあり。」が必要ないとするのはどうか。個人の自立を信奉する進歩派知識人は、憲法9条への愛だけを語り続けることにより、対米従属自衛隊強化沖縄植民地化を黙認し続けただけでなく、自らの幻想である平和国家という「われら」を強固に信じている。わたしたちはどんな既成の「われら」をも拒否するしかない、端的に時間の無駄だからだ。だが何んらかの「われら」を非望のように求めてしまっていることをむしろ認めるべきなのだ。



 とここまできてやっと、 
「Ich bin. Aber ich habe mich nicht. Darum werden wir erst.」から始まる本「Spuren」というのが、菅谷規矩雄訳で本棚にある本だと気づいた。

私は、在る。だが私は私を所有していない。それゆえにまず私たちが成る。
(p2『未知への痕跡』E・ブロッホ 菅谷規矩雄訳 イザラ書房)

この本の方法を菅谷は次のように解説する。

ひとつの神話、ひとつの物語は、それぞれその発生・成立時の支配イデオロギイその他に制約されていて、ほんらいのモティーフを充全に表現しえていない。主体において〈いまだ意識されない〉もの−−それゆえ客体において〈いまだ存在していない〉もの−−その双方はしかしやがて実現されるための変化のプロセス、つまり主体=意識の前線にあらわれでようとする意向(Intension)、客体の生成過程に未来的に潜在する傾向(Tendenz)の相関関係を、なお不充分なままでおしとどめ、そしてかすかな〈きざし〉のみを私たちに伝えてよこす。
(p296『未知への痕跡』E・ブロッホ への菅谷規矩雄の註と解説 イザラ書房)

Ich bin.とは、ブロッホにとって出発点であると同時に不可能なテロス(目的)であったようだ。


さて、わたしは松下にとって「be」とは何か?を訪ねるためにその周辺を回遊してみたわけである。

六○年代に出現した全ての問いを、その極限まで展開しうる状態の中に存在せしめよ、
http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/itbe1.html

存在(Sein)所有(Haben)生成〜自己実現(Werden)の相関のうちに、松下のこの問いの群はどのように直立しているのか。

*1:この本については下記に言及有り。http://www.shonan.ne.jp/~kuri/hyouron_6/koumura.html 好村冨士彦追悼

*2:であるがゆえに言及されることはない。

*3:ユートピアの精神とは翻訳もある分厚い本だが私は全然読んでいない。したがってわたしの解釈は間違い。

*4:最近では&query=フクダユウイチ

キタ━━(゜∀゜)━━ッ!!

 ところで、キタ━━━━(゜∀゜)━━━━ッ!! というのは英語で絶頂感を表すcome!、coming! の翻訳なのだろうか。こんなことを考えたのは、書こうとするとき「なにものかに促されて記述していく時に向こうから現れてくる像や音や〜に気をつけ」云々という松下の文章を読んで、〈向こうから来る〉ものって何だろう、と考えてみたからだ。
私たちはテレビやネットで新商品などの情報を浴びせられ続けお腹一杯になる。それでもたくましく私たちは生きるのであって!何かがかすかなオーラを発するときすかさずわたしたちはキタ━(゜∀゜)ッ!!と歓声をあげてそれを迎え入れるのだ。つまりすでに何か奴隷のようなものであるわたしたちが、それでもなお〈光〉に反応するあかしこそが、キタ━━(゜∀゜)━━ッ!!である。