松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「被害者の立場」に対する危惧

id:gkmond:20050726#p1 への返信がおおはばに遅れ、申しわけありませんでした。
以下乱文で失礼します。

0)わたしは確かに少し年上のようですが、戦争について意識的に本を読んだりしはじめたのはある意味で『ゴーマニズム宣言戦争論』を読んでからで、まだ3,4年です。戦争を知っていると言えば、もう80歳くらいの方ですね。下記のリストを見ると、小泉、石原的なものに危機感を持っている方が意外にも多いように感じました。
http://www.tokyo-np.co.jp/shouwa0/index.html 昭和零年 1925年生まれの戦後60年

1)わたしは「日本の行った悪いこと」について学校で教えられた記憶はほとんどありません。中学高校は受験校で詳細な世界史日本史の授業を受けました。教師は左翼でしたが、太平洋戦争はおろか明治くらいまでしか行かなかったような気がします。
イデオロギー的(=絶対平和主義的)強制に反発して」、という動機を持つ人が多いようですがわたしにはそうした体験が欠けています。

2)言いたくないのですが、わたしの父母の親族は(わたしの知る限り)兵役についた人もおらず、戦災で死傷した人もいません。お上には上辺でだけつき合って置けばよいという関西商人のエゴイズムとか、要はわが身だけは守るプチブルのエゴが通る余地が少しはあったということです。戦争で前線にかり出されるのは常に下層階級の割合が圧倒的に高いということ、この傾向は新自由主義の現在強まってきていることは最も強調されるべき事です。

3)

 また当時の日本軍が「生きて俘虜の辱めを受けず」という命令を住民に強制しようとしていたという話をきいたことは当然私にもありますが、それを民間人に強制しようとしていたのかまでは知りません。

これが論点ですね。

4)「例えばそのフレーズを広く普及させたのは、ラジオや新聞だったかもしれないし、町内会長や校長先生みたいな人物だったかもしれないと考えるからです。そしてそうであった場合、軍隊だけが悪いと言い切れるでしょうか?」
もちろん軍隊だけが悪い、わけではないです。
id:noharra:20050730#p2 に書きました。

5)「 また「彼ら(軍人)の存在が被害者を作ったという因果関係は明らかにある」という部分に関して、こちらに反論はない(そういう部分がなかったというのは明らかに想像力に問題があると思いますので)のですが、」
これを認めてもらったらそれでよいのです。

6)

参考にあげられた林博史氏の論文「「集団自決」の再検討」 http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper11.htmは、上記参照サイト「教科書は間違っている」において、致命的な批判を受けているように思われる『鉄の暴風』(編集・沖縄タイムス社。初版発行・昭和二十五年八月十五日)に基づいた記述がなされていると考えられるので参考にはできないかと思われます。インタビューに関しても同様のスタンスを取りたいと思います。 

7)

「戦前の日本がやったことは全て悪いことである」というのが戦後を支配した定理で、それに対する批判はすべて正しいとされてきた。このように私は理解しています。

そういう面があったとも言えるでしょう。その限りでそれに対する批判は正しいでしょう。しかし、
小泉氏は「罪を憎んで人を憎まず」というが、「罪とは何か?」を定義しようとした事は一度もない。「戦前の日本がやったことは全て悪いこととは言えない」という主張になっている。歯止めが一切ないのです。だから、「何度でもわたしは崖から飛び降ります」みたいな窮極のマゾヒズムの肯定まで直ぐにいってしまう。ここが現在の言説情況の非常におかしなところです。
8)

だから私にとって、このイデオロギーにまみれた戦前戦中史が検証されるようになってきたことは、ある種の解放に思われます。触ってはいけない部分が減ったという点においてです。

 私は国を誇れるような歴史が欲しいわけではありません。ただ神話でなく歴史を名乗るなら、常に検証可能であるべきだと思っているだけです。

賛成です。15万人?の死者を身近に感じ、その問題にわたしがせき立てられているといった気持ちには、犯しがたいものがある。だが被害者の立場といっても多様な物のはずで、不可侵の正義が予めある、という前提は、異論の存在する余地をなくしてしまう。というようなことが確かにあるのかもしれない。

というわけで以下、3)と6)について検討したい。

降伏禁止は民間人に強制されたか?

3)
住民に対し「生きて俘虜の辱めを受けず」というフレーズが強調されたかどうかは分かりません。

そのため沖縄では「一木一草」にいたるまで戦力化することがはかられ「軍官民共生共死」がうたわれた。つまり軍に全面的に協力し、軍が玉砕するときには県民も一緒に死ねということだった。
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper40.htm

一方、主陣地のあった地域を見ると、佐真下のジルーヒジャグワーガマには日本軍が入ってきて、少尉が日本刀を振りかざし、「米軍の捕虜は絶対に許さない。捕虜となる者はこの刀で切り殺す」と住民を脅した。
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper11.htm

 本島中部の状況を見ると、日本軍がいなかったり、すぐにいなくなった地域では、米軍にすみやかに占領され、住民は集団で投降して助かり犠牲者が少なかったケースが多い。その際に移民帰りが投降を指導した場合がいくつか見られる。一方、日本軍陣地があり、軍民が混在していた地域では、集団で投降することは許されなかった。そのため米軍が接近し砲火のなかを南部に逃げ、そのなかで多くの犠牲者を出した。壕に残っていると、日本軍と一緒ならば米軍の攻撃を受けて犠牲になり、あるいはスパイ視されて日本軍に殺された。ただ南部という逃げ場が残されていたので「集団自決」にはいたらなかったと見られる。(同上)

以上により、降伏は許さない、という強い圧力を皇軍がかけ続けたのは事実だ。

というわけで

http://www5e.biglobe.ne.jp/~tokutake/kyokasho.htm
教科書は間違っている1
http://www.jiyuu-shikan.org/faq/daitoasensou/okinawa.html
沖縄戦 集団自決事件をめぐる 『反日神話』の背景
を読もうと思ったが、長い! 続きはまた遅れます。

ふやけたナルシストの言説  (8/4 朝追記)

でまあ読んでみた。
1)座間味村の場合

それで宮城初枝さんは梅沢さんに謝らなくちゃいけないと思って手紙を出し、昭和五十七年六月、座間味島で行われた慰霊祭で三十数年ぶりに梅沢さんに会った。そこで宮城初枝さんは「虚構」が生み出された背景から何から洗いざらい話して、心から謝罪した。
梅沢さんはそれを聞いて胸のつかえが全部とれたといいます。というのも、梅沢さんはその間、ものすごく辛い境遇に置かれていたからです。昭和三十三年頃、週刊誌が梅沢少佐や赤松大尉こそ集団自決の命令を出した張本人だという記事が世の中に出回った。それ以来、職場にいられなくなった梅沢さんは職を転々とし、息子さんが反抗して家庭も崩壊状態になった。もうよっぽど反撃に出ようかと思ったけれども何を言っても敗残の身。猛火に飛び込む蛾の如くなってはならないと隠忍自重していたというのです。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~tokutake/kyokasho.htm  教科書は間違っている1

 梅沢という言う人はこういうふうに弁護されて嬉しいのだろうか。彼らの論点は「命令はなかった」というものだ。

ここで考えなければならないのは、なぜ住民達が集団自決の命令を宮里助役の命令ではなく、「軍の命令」として受け取ったかということです。私はおそらく宮里助役が防衛隊長を兼務していたことが関係していると思うんです。というのは、それまでも軍の命令−作戦に必要な木の切り出しや荷物の運搬など−はすべて防衛隊長である宮里助役を通じて住民に伝えられていました。だから、米軍の攻撃の中で、忠魂碑前に集まれという命令が出された時、受け取った住民の方が「ああ、これは軍から来ているな」というふうに考えたとしても、これは無理もない。

市民は誰もその命令を聞いていない。具体的命令は宮里助役から来た。市民から見れば、助役は軍と一体の権力機構である。最近になり、梅沢個人の名誉にこだわるという奇妙な論点からものごとを考える人たちがでてきた。宮里からの命令を梅沢が覆さなかったかぎり、現場の最高責任者が責任追及されるのは当然だ。
百人近くが自決したのに、自分の名誉さえ救われれば、「胸のつかえが全部とれた」とは。梅沢さんがこうした「帝国軍人らしい」人格の持ち主なのか、それとも再話者が悪いのか。
「梅沢個人の命令」があったどうか、は分からない。だが大日本帝国に責任があったことは間違いない。「軍命令がなかった」ことを大声で言い立てたがる人は、沖縄戦の悲劇を反省しているとは言えない。むしろ「軍は市民を守らない」というわたしの偏見を、裏付ける存在のようだ。

2)先祖を悪し様に

 小学生や中学生の我が子に向かって、先祖のことを悪し様に、まして事実でない世間の作り話を尾鰭まで付けて教えるような愚かなことを、正常な人間だったら決してやらない。 子供たちには、彼らの先祖に対して誇りや尊敬心を持てるようなこと、これからの人生を生きてゆくための手本や励みになるようなことを先ず話してやることが本当の愛情というものではないか。
http://www.jiyuu-shikan.org/faq/daitoasensou/okinawa.html

 降伏すれば助かる時も降伏はせず、「御国のために死ぬ」事だけが価値だと教えたことは間違っていなかった。今後も国民はそうあるべきだ、と言いたいのだろう。
 それが愛国だと。(わたしのようなアナキストを喜ばせるだけだがw)

3)大江健三郎

  <生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件(=座間味村渡嘉敷村の軍命令による集団自決を指す・筆者註)の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、(中略)かれが本土の日本人にむかって、なぜおれひとりが自分を咎めねばならないのかね? と開きなおれば、たちまちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう>(六十九〜七十頁)
  <新聞は、慶良間列島渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいってもすくなくとも米軍の攻撃下で(中略)「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が、戦友(!)ともども渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた>(二百八頁)
  <かれは他人に嘘をついて瞞着するのみならず、自分自身にも嘘をつく。そのような恥を知らぬ嘘、自己欺瞞が、いかに数多くの、いわゆる「沖縄戦記」のたぐいをみたしていることか>(二百九頁)
大江健三郎著『沖縄ノート』(岩波新書

 大江はべつに変なことを言ってない、と思った。

旧日本軍の人体実験

旧日本軍の人体実験、外国人犠牲者のリスト見つかる

                                                                                                                                              • -

戦時中に旧日本軍に逮捕された後、関東憲兵司令部から731部隊に特別移送され、細菌を使った人体実験の犠牲となった外国人(「特移扱い」と呼ばれ
た)22人の名簿と資料が1日、中国の歴史研究者によって初めて公表された。犠牲者は旧ソ連の兵士やスパイ、旧ソ連のために活動していた朝鮮人スパイな
どで、旧ソ連人15人、朝鮮人6人。
名簿と資料は、旧日本軍が未廃棄のまま残し、黒竜江省吉林省の資料館や中央の資料館に保存されていた日本語書類の中から見つかった。書類は関東憲
兵司令部司令官が署名発行したもので、外国人犠牲者の氏名・性別・年齢・本籍地・職業・身分・当時の住所・逮捕地点とその理由、各憲兵隊長による「特移
扱い」伺い、関東憲兵司令官による承認番号などのデータが、比較的完全な形で残っている。(編集NA)
人民網日本語版」2005年8月2日
http://j.people.com.cn/2005/08/02/jp20050802_52290.html

731部隊長石井四郎のノート発見

731部隊長名のノート発見 元側近宅から2冊

2005年08月04日07時08分

 細菌兵器開発のため人体実験を繰り返したとされる旧関東軍防疫給水部(731部隊)の部隊長・石井四郎軍医中将の署名が表紙に記された未公開ノート2冊が、側近だった夫妻の自宅から見つかった。石井氏は戦後、連合国軍総司令部(GHQ)に資料を提供し、戦犯の訴追を免れたが、これまで本人の手記は見つかっていない。直筆ノートならば、GHQにも明かさなかった終戦後の足跡や内面を記した貴重な一次史料ということになる。
 A5判の大学ノート。表紙に鉛筆で「1945―8―16終戦当時メモ」「終戦メモ1946―1―11 石井四郎」と記され、終戦直後に書き留めた備忘録とみられる。在米ジャーナリストの青木冨貴子さん(57)が東京都内の元側近宅でノートのことを知った。
 元側近の妻によると、石井氏は戦後まもなくこの元側近宅を訪れ「アメリカ人が来て没収すると困るから」とノートを預け、59年の死去まで返還を求めなかったという。
 青木さんは米国立公文書館の文書をもとにノートを分析し、「ごく少数の関係者しか知らない部隊幹部の住所など、本人でないと知り得ない事実が書いてある」ことから直筆ノートと判断。石井氏が部隊を創設し、戦後に訴追を免れるまでの経緯を5日発売の著書「731」(新潮社)にまとめた。
 ノートは略語や隠語を多用した断片的なメモの羅列のため、青木さんは当時の史料とつき合わせて解読を試みた。

 ■「1945」メモ
 記述は敗戦翌日から始まる。ソ連が対日参戦し、8月9日に旧満州に侵攻すると、石井氏は東京から駆けつけた司令官に、一切の証拠物件を雲散霧消させるよう命令を受けた。ノートには〈新京(現長春)に軍司令官当地訪問/徹底的爆破焼却、且、徹底防諜を決定す〉と記されている。
 しかし石井氏らは大量の病理標本や浄水機などの機械類、ワクチンなどを持ち帰った。ノートには〈抽出持込〉〈搬出積込〉と記され、命令を受けた直後から資料を持ち出す作業に取りかかったことになる。
 石井氏の帰国経路をうかがわせる記述もある。8月16日、〈新京 停車場貴賓室に徹夜〉。そこから釜山に到着し、貨物船を手配。〈26/8 医務局〉とあり、8月下旬に東京に戻り、26日に陸軍省医務局を訪れたようだ。

 ■「1946」メモ
 石井氏が自宅蟄居(ちっきょ)中に書いたとみられる。
 〈連合国20/11招待時の買出し一覧表〉と記され、GHQ詰めの米国人将校の名前がある。青木さんは「石井が45年11月20日に将校6人を自宅に招き会食したと考えればつじつまが合う」と語る。
 会食時の米軍将校らの会話の内容とみられる個所もある。〈ミスター・イシイを知っているか まだ満州にいて帰らぬ〉などとある。「GHQの一握りの幹部は45年秋から石井の所在を知っており、会食にまで応じながら、尋問のため石井を探し回っていたGHQの調査担当者には隠していたのではないか」と青木さんは推測する。
http://www.asahi.com/national/update/0804/TKY200508030366.html?ref=toolbar2
asahi.com731部隊長名のノート発見 元側近宅から2冊 - 社会

関連資料なのでここにコピペしておきます。