あるきっかけがあったので松下未宇さんについての、松下昇の言及を調べてみた
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比較的扱いやすい文章表現については、詳細な索引付きで彼自身が整理した。その一部は「mokuji」として
https://666999.info/matu/mokuji.php
から辿れるようになっている。
芹沢、恋崖、未宇、μ については、このページにはない。
別のページ
http://kusabi1969.ever.jp/gainen/sakuin.pdf#page=20
によると、芹沢については、G別1・12
垣口、森重については記載がない。
松下未宇については、G3-23,G4-10,G9-14右,33,G12-21,(G別1-2) と6箇所も参照せよとされている。そこで、迂回をたどることになるが松下未宇についての6箇所を順に検討して行こう。
☆ G3-23,死を前にして、はテキスト版もある。
https://666999.info/matu/data0/gainen55.php
1976.4.10に六甲カトリック教会で行われた葬儀の様子が書かれている。
六才の末宇(未宇)と字が間違っている、私の責任。
(みう未宇の名前が間違ったまま訂正できない。)
1976.4.10に六甲カトリック教会で行われた葬儀の様子が書かれている。
「六才の未宇が、永遠に巡礼してしまうとは…。」と書き、死という言葉は使わない。
「私は果てし無い虚脱状態の中で、末宇、よくがんばったな、それにしても、タバコを吸いたい、トイレはどこかな、などと考えてもいた。」ところが彼の思念はタバコを吸いたい、といったあらぬ方向へそれていく。
「人間は、他のだれにも通じない苦痛や自失の中でさえ、それと一見して矛盾する感覚を潜りうる存在であり、その位置や意味を、たとえ人倫に反すると批評されようとも表現していくのが〈文学〉(せまい既成のジャンルを越えたものを、ひとまずこのように措定しておく。)の本質であろう。」そしてそれに哲学的考察を加える。
そして、大江健三郎の「息子が生きていく時に迷わないように、この世界のなにもかもについて、息子が理解しうる言葉で定義しておくこと構想」に言及する。
先に見た、
http://kusabi1969.ever.jp/gainen/sakuin.pdf
、のような試み(索引)は、後世のものに対して「生きていく時に迷わないように、この世界のなにもかもについて、独自の言葉で定義して」おこうとする試みだったと理解して良い。
現実が憲法の規定に反していると大江は考える。大江の全政治思想や行動様式を護憲派と見て、松下は転倒を必要とすると考える。しかし混ぜっ返すことになるが、核兵器というあってはならないものを否定する意志こそが日本国憲法の核心だと大江が読み込んでいたのだとすれば、松下と大江の距離はそれほどなかったかもしれない。
【論争】大江健三郎vsクロード・シモン というと、youtubeがでてきた。ソ連に対抗するためのフランスの核兵器の存在をシモンが肯定するのに、大江が抗議するという話のようだ。
https://www.youtube.com/watch?v=d2J0yWwZXQY
参考 https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/7617
大江にとって核兵器とは戦争しかしないところの近代文明の核心であり絶対あってはならないものだった。一方シモンはヨーロッパ人として実際に今回のウクライナのようなことは起こりうるので、それに対抗する必要はあるのだという実感を持っていた。
現実の日本政治のなかで大江は護憲を社共・リベサヨの援護とほぼ重ね合わせていたので、松下からの批判は当然だということになるが。
核兵器がその核心に存在する国際政治は、とうていありえないものであった、大江にとっては。それと同じように、自分を懲戒免職した日本社会の総体は、松下にとってとうていありえないものであった。したがって、「この世界のなにもかもについて再定義する〈辞書〉を、息子未宇に対して残す必要があると松下は考えた。未宇は死んでしまったが、〈辞書〉は概念集という形で残された、と理解してもよい。
さて、次、
☆ G4-10 夢屑 である。
http://kusabi1969.ever.jp/gainen/g04.pdf#page=12
夢屑というのは、島尾敏雄の短編集の題である。
ここでは「(19)70年3月末に、生後二ヶ月たらずの未宇が呼吸困難に陥ったので、救急車で病院に運んだことがある。医師や看護婦は、応急措置の後で、舌を少し引き抜くか切る手術をしないと今後も窒息死の危険があると私に告げたが、視力がまだ殆どないままに私を見る未宇の〈無言〉に押し出されるようにして拒否した。医師たちはでは責任はもてない、というようなことをいってから(後略)」
ということがあったと書いている。
未宇さんが70年1月全共闘運動の崩壊が始まった時期に生まれたことが分かる。でその日は丁度、赤軍の日航機ハイジャックがTVで実況中継されていた時であり、医師たちもそれに気を取られていたに違いないと松下は考えている。(今後確認するが)、芹沢は母子が緊迫した状況の圧迫を受けると障害児が生まれたりその影響がひどくなる可能性があると考えているみたいだが、それはいわば神の計らいを俗人の感覚で推し量っているだけで別に確かな推論ではない、まあ松下がそう思っていたとは言えるのではないか。日航機ハイジャックは未宇の健康の維持に(松下のストーリーによれば)プラスの影響を与えたのだし。神の計らいといった言葉は松下は使わないが。
☆ G9-14右, なぜ裁判にかかわるか
http://kusabi1969.ever.jp/gainen/g09.pdf#page=25
これは「なぜ裁判にかかわるか」というテーマなので、未宇くんがなぜ出てくるのかな。
右は、参考資料を掲載するページである。時の楔通信〈0〉号からの引用として、
「もうひとつ、深いつぶやきとして…いつも胸の底で鳴っているのは“{未宇}区に存在しないことが、{私}たち相互の}実刑{、{未宇}の存在しない世界に存在を強いられていることが{私}たちすべての}実刑{ ”という}歌{である。」という、奇妙な記号に満ちた秘教的文がある。
先に確認したように、76年4月に未宇さんはなくなった。しかしそれを、松下は異世界への巡礼と捉えた。ここまではよくある比喩である。そこからさらに「{未宇}の存在しない世界」自体が倒錯した世界でありその世界に存在を強いられていること自体が苦痛だ」とこの世界自体を松下がその特殊言語において転倒してしまう。その世界の転倒を表示するために、そこにおける存在は逆カッコ“}{ ”で表示される。これはまことに読みにくいので表現形式としては失敗だろう{未宇}{私}{あなた}は転倒の前と後の世界の蝶番の場所にいる感じだろう。転倒後の世界のモデルは合法的世界がその反転として作り上げた監獄である。
・処分や処刑によっては、本件を出現させた全ての問題は解決しない。逆に我々の試みに法〜国家は共闘していくことになる。そのような運動の深化と広がりによって、体制は実践的に破壊される。まあそういうことを言っている。文体が難解で過剰包装の気味がある。それはすべての感覚や判断は秩序化の側にすでにいつも歪められているのでそれをなんとか戻す作業がまず必要なのだ、ということだろう。それが、秩序側からは過剰包装に感じられる。
ここでは{未宇}は、世界の全ての転倒を告げるモード記号のようなものになっている。
☆ G9-33 断筆宣言を断念して断固かき続けよ!
http://kusabi1969.ever.jp/gainen/g09.pdf#page=54
ここでは、K氏も言及された?、てんかん協会から筒井康隆への糾弾についての評価が取り上げられている。
清水良典の時評は「どんな過酷な検定でも、今回のてんかん協会の抗議のように、問題の一文が所属する元の著作そのものの回収や書き直し」はさせない、とする。
松下は、「本来、差別とは健常者が糾弾の時に思い込んでいるように議論の余地のない概念などではなく、議論を開始していくための不確定な概念である。その概念で支持されている存在、とりわけ知的・精神的に障害があるとみなされている存在は、自分が差別されているという意識が殆どなく、まして言葉で表明することはない。この状態をいわば代理して健常者が他の人に糾弾の場などで使用する時の自分の中の微かな頽廃についての感受がない場合には、その主張が限りなく主張の本質と逆倒していく」ことがあるのではないか、と松下は書く。マイノリティの極限、サバルタンの表現について私たちはいくつもの逆説に出会うことができるということを、わたしたちはスピヴァク『サバルタンは語ることができるか』(1988)以後知ることができた。スパヴァクは、その声を代弁できず拝聴することもできないサバルタンと、いかに倫理的な関係を取り結ぶことができるかを探求した。そういった問題に、松下は時代に先駆けてコミットしていた。「言葉を発しないまま六歳で死んだ〈障害者〉松下未宇と共に生きていた私は感受してきた」と書かれている。転倒した世界(障害者から見た世界)に松下は未宇の名とともに入っていくのであるが、ここでは秘教的異空間は設定されず、普通に差別が考察されている。
・・ 「どうして「筆を折る」ことが、そんなに気になるのか?私はそう思う人たちの価値観が流通する文筆の場を無視しているだけであり、彼らの質と量をはるかに突破する方向で〈筆〉をふるい続けていることを、知る人は知っている。」とまた、松下は書いている。(同頁)
これは私からKさんにも聞きたいことである。なぜ、松下の名が、既成文壇(あるいは同人誌かいわい)と触れ合った一点である、4・11問題(『恋崖』座談会事件)について語ろうとするのか?
私の http://666999.info/matu/mokuji.php
はすでに15年以上前から公開しており、K氏はたぶんご存知であろう。なぜ松下のテキストをじかに取り上げずに、ある座談会を取り上げるのか、既成文壇というほどの権威ある座談会でもないのに。この辺の秩序感覚はよくわからない点である。
☆ G12-21 公園・オープンスペース (概念集10との関連で)
http://kusabi1969.ever.jp/gainen/g12.pdf#page=32
ここには「〈私道〉に属するが、この単行本発行後に私と一緒にこの場面を読んだ松下未宇は、その直後に6歳で急死した。それ以降、私はこの劇画の主人公以上の闘いへと踏み込んだと思っている。ただし、それは決して悲壮なものとは限らず、もっと〜なものであるが…。」
これは小池一雄の『子連れ狼 27』の河川敷の掘っ立て小屋のマンガ画面の断片が掲載されそれに対するものだ。
「私道は 遠くさり 父子は再び 冥府魔道の 士道に立った」というセリフがある。私道とは庶民の日常生活、冥府魔道の士道とは刀を振り回してばかり居る劇画の主人公のことであろう。子連れ狼は類似の劇画と違い、小さい子を連れて冥府魔道の生活を送るのだ。松下の、裁判闘争など(この劇画の主人公以上の闘い)には、常に{未宇}が随伴していたと松下は感じていた。第三者にはみえないところの{未宇}が。
☆ (G別1-2) 死者の数
http://kusabi1969.ever.jp/gainen/oumu.pdf#page=3
ここには、未宇の名前はない。
「2月2日という私にとって特別な日に」というフレーズがあるだけだ。
1969年2月2日、松下は「情況への発言」という文章を〈六甲空間〉(神戸大学)の掲示板に張り出した。
「〈神戸大学教養部〉の全ての構成員諸君! このストを媒介にして何をどのように変革するのか、そして、持続、拡大する方法は何か、について一人一人表現せよ。
少なくとも、この実現の第一歩が、大衆的に確認されるまで、〈私〉は旧大学秩序の維持に役立つ一切の労働(授業、しけん等)を放棄する。」と書いて、彼が労働放棄しても生きられる異世界に踏み入った日である。
そしてまた、下記頁によれば、松下未宇が生誕したのは、70年2月2日である。
(そして不思議なことに、89年年末になくなった菅谷規矩雄の葬儀は90年2月2日に行われた。)
http://kusabi1969.ever.jp/sugaya/s1.pdf#page=3
そして、谷川 雁は(1923年12月25日 - 1995年2月2日)とウィキペディアにそうある通り、〈六甲大地震〉の直後の2月2日に肺炎で死去した。「極めて適切な時期に(六甲大地震の)死者たちの次の世界への出立に同行してくれたと、ひそかに感謝している。」と松下は書く。
松下はすでに異世界に住んでおり、生の世界と死の世界のあいだにはときおり風が吹き抜ける、そのような感覚でもあっただろうか。
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