松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

慰安婦・純潔と多義性

韓国・仁荷大教授キム・ミョンイン氏の「少女像、その「不便さ」について」
www.huffingtonpost.jp/myoungin-kim/girls-statue_b_14276834.html を読んだ。


「成人女性だったとしても、仮に自発的だったとしても、また極端に言えば一種の売春だったとしても、女性が男性軍人の性欲解消のために制度的に動員されるのは残酷で野蛮なことだ。(略)
今日のこの「少女像」は、あえて日本だけに限定されない、すべての醜悪な戦争犯罪の非人間性を想い起こさせる造形物として意味があるといえる。」
まあそうです。しかし、元「慰安婦」問題は特定の戦争(アジア太平洋戦争)における特定の問題としての「ねじれ」として現象している。一挙に普遍の問題として語ろうとする言説には注意が必要だ。


キム・ミョンイン氏は次にこう語る。
「凌辱された純潔な少女」というイメージは、「敗北したり侵略されたりした民族を、蹂躙された女性に置き換えて反撃の内的動機を作りだし」「一次元的な民族主義によくある感性戦略」に利用されてしまう。韓国/日本という非和解性、「我と非我の闘争」に意識を動員する効果がある。
さらに、「女性に対する固定観念―弱く保護されるべきであり、純潔でなくてはならず、他の「奴ら」が触れてはいけない非自律的で受動的な存在―という、男性優位的な観念を再生産する」。
さて、こいつは、口ばかりうまいパク・ユハ第二号か、と疑いが起こってしまう。


しかし彼は言う。
従軍慰安婦の問題をこうやって継続的に提起し、記憶し続け、現在の問題として絶えず想起させてこられたのは、純粋に「慰安婦の方々」の勇気と民間の努力のおかげだ。「挺身隊問題対策協議会」しかり、「ナヌムの家」しかり。」これは彼の本心だろう。自己の内に矛盾があるからこそ、「不便」といった変な言葉を使うのだろう。


「それはそれ自体として、「口に出せない存在」だった「慰安婦の方々」が経験してきた、まさにその不安感と不完全感と不便さを代わりに雄弁に語る形象として、また、すべての記憶闘争が持っている明確な敵対性と、ひけをとらない曖昧性や多義性が渦巻く「現場」として、激しい存在意義があるのではないか。」
慰安婦は少女としてだけ居るわけではない。現実の元慰安婦たちは、仲間がほとんど死んで孤独な老女である。日本のネトウヨによれば「くたばりぞこないのババァ」である。善良な良い老女に決して成ることの出来ない女性存在に対して、彼女たちから最も遠いイメージの少女像が、あえて、表象代行しているのだ。〈敵対性と曖昧性や多義性が渦巻く「現場」〉であると名指されるべきであろう。


でもちろん、「大金で最終的解決を買ったと称する和解」を強制する立場に敵対する前提において、日本におけるこうした発言は、なされる必要がある。
「われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。(河野談話)」日本人の「歴史の真実を回避・否認」しようとする努力、慰安婦たちをものが言えない存在(ものを言っても聞いてもらえないサバルタン存在)に押し戻そうとする無限の努力と闘い続けることが、さらに必要であろう。