敗戦の原因
村岡典嗣(1884年-1946年4月)は、日本思想史の学者だ。古事記と源氏物語を称揚して、いわば日本主義の基礎を作ったのは本居宣長だが、本居の再評価を決定づけたのは、村岡の1911年の『本居宣長』だったそうだ(それまでは一般に知られていなかったらしい)。
「国民精神」「日本精神」が鼓舞強調され、国体明徴運動が展開された昭和前期、いわば日本思想史の領域の言説がたえず大衆に吹き込まれた。しかし村岡はそうした動向からは一歩引いて地味に学問に専念した。
そして敗戦。その直後、村岡典嗣は次のように言った、敗戦の原因と副題された講演で。*1
その原因を闡明(せんめい)する事を怠る所以となってはならぬ。責任の看過、殊に回避となってはならぬ。
(敗戦の原因として)或いは道義の頽廃、あるいは科学の不振、あるいは政治経済の渋滞、就中(なかんずく)統制の不完全などが挙げられている。*2
責任感の欠乏こそは、特に挙げられるべきものであろう。
45年9月12日と13日、今までの全力で守らなければならないされていた価値観が根底から崩され市民たちは途方にくれていた。政府やマスコミも新しい価値観を用意できていなかった。その時、一人の地味な学者は何を言ったか。
しかしそうした議論は根本的なものを見逃している。根本的なものとは「国民の思想的態度、則ち国民精神に対する明瞭なる認識、則ち自覚の欠如」である。*3
いままで国民を呪縛し戦争と耐乏に駆り立てたおまじない言葉であったのだから、そんなものは一刻もはやく捨て去ってしまえば良いだけだ。民主主義と階級闘争という旗印の方へ駆け出せ、そうした声がすぐに圧倒的になるのだろうが、9/12の段階ではまだそうでもなかったのだろう。
国民精神とは何なのか?、「肩章や襟章を外した丸腰の軍服のままの復員者」*4に混じって、わたしたちはいまそれを聞いてみる方が良い。
彼が掲げるのは二つである。
国体、と世界文化の摂取、である。
国体、則ち国家の性格は、天皇中心の血族的国家である。
儒教、仏教、新しくは西欧文化等、凡そ世界の一切のすぐれた文化財に対して、之を学得し之を消化しようとしてとり来たった態度、また成績、が後者である。*5*6
日本精神(日本国民が全体として有する国民精神)を持つことを、日本人は誇って良い、と村岡は言う。その特色を村岡は語る。
第一の特色は、動機主義的傾向。行為者の心事如何を問題とし、その善悪に道徳的基準をおく態度。あかき心の潔白を、正直の無私を大和心のうるわしさを第一事とする。
第二の特色は、感性主義。感情的。儒教の天を対象とする至誠、西欧道徳の良心を対象にする厳粛に対して一種温和的持ち味を持つ。
二つは、主観的とまとめる事ができる。*7
長所の一。犠牲的精神の旺盛。特攻を心事の潔白に基づいてのひたむきな感激の結果であると村岡は述べる。
二。おおらかさ。理論や主義に束縛されたり拘泥することなく、よく大勢に応じて融通する所謂大乗的態度。「終戦に対する詔勅の大御心と之に対する国民の精神的態度」が著しい例だと。
三(短所)。独善的傾向。動機主義は自己の過信に陥りやすい。自分の誠意を自己が確信していたとしてそれが真の至誠であることを誰が保証するのか。敢えて理論を斥け融通自在なる感性主義、は独りよがりに陥る。「一部の日本精神論者の陥った他国を別紙しての自国優越観、徒らに希望的観測に耽って反省を怠る自負」など。必然的に独善になる。
四(短所)。軽信性。我を虚しくして他を受容する傾向、急激な尊信や無批判な憧憬となる。
五(短所)。客観性の蔑視や軽視。一切の方向に於ける実証的科学的用意の不足、道徳、政治その他文化諸汎に於ける社会性の欠如。
以上が、日本精神についての村岡の評価のまとめである。
動機主義と感性主義は、戦争や経済成長のようにある意味の全体主義に親和的な気がする。しかし、226事件や全共闘運動のような反体制運動においても、そうした傾向があったことは否定できない。
日本精神に長所などありはしない、と言いたい気持ちがあるが、それを全否定した69年後が現在である。天皇主義者村岡に比べても、安倍の愛国主義の方がレベルが低いと思う。
日本を焦土にした戦争を引き起こした責任者に対して、日本国民が責任を追求することがありえないことであるかのようにいいつのる、いわゆるネトウヨとネトウヨ類似の馬鹿が大量発生している。
敗戦直後のある地味な保守主義者の「反省」を、あえて紹介したいと考えた理由である。