http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090315#p1
http://freezing.blog62.fc2.com/blog-entry-589.html で、
「坂のある非風景」さんからRESいただいた。ありがとうございます。
「坂のある非風景」さんの「かなり前からハマスのテロ一回につき数百人(曖昧)を計算によって、論理的に虐殺してきたイスラエル」という文章をわたしは喜んで引用した。数百(千)人殺害に焦点を当て糾弾することに対して、そこに(ひどく歪んだ形ではあるが)等式が存在することを指摘することの方が、クールだと思えたから。*1
ただこの「等式」を持ち出したMさん*2の構図は私とはかなり違ったものだったようだ。
「すべてを数字に換算する法のなかに平和はない、そのことをイスラエルが示している」イスラエル/パレスチナ問題とは何か?数千年に渡る宗教対立や、ユダヤ教=法の思想 といった大層な思想的課題は本質ではない。ただの卑小な植民地問題である。ただイスラエルが発展しつづけたおこぼれでパレスチナ側にも多量のパソコン、デジカメなどが流失し、流血が「われわれ」の目に止まるようになっただけである。*3
どれが明でどれが暗か、私にはわからない。
必要なことは<平和に平和はなく、悪は悪ではない>といった命題を露呈させること、それだけである。
ふーんよく分からないが、Mさんは、「「ハマスのテロ一回につき数百人」という算術がそこにある」と言いながら、そこに悪を見ないことを正しいと思っているのか。本気なのか。
つまり、憎悪をかく乱し、神の声である<法>を相対化するためには、あらゆる命題を不完全なものに変えるラディカルだけが求められている。
「あらゆる命題を不完全なものに変えるラディカル」ってどういうことなのだろうか。それは「オタクでありつづける自由」*4の援護でしかないのでは。
しかし知らない国のできごとなど「糾弾しないのがふつう」ではないだろうか。
急に、知らない国のできごとなどとカマトトぶられても困る。あなたはイスラエル/パレスチナ情勢について、それをある特異な対立構図(「憎悪」:「法」)に還元できるとする立場で論じている。流血の現場を高踏的印象批評でもって、寸描する権利だけはあるが、流血の現場に涙するのは大人げないとは奇妙な立場である。
イデアは、政治か芸術か科学に登場することしかできない。(略)
政治は、政治的正義が常にイデアを裏切りつづけるという醜さが反射する「そうではないはずの」美しさ、反証される誠実さである。
ガザの流血を見て、「政治的正義(神の国=イスラエル)が常にイデアを裏切りつづける」と考える。ものごとを考察するときに必要な次元を加えてくれる貴重な指摘であるだろう。*5
しかし流血は流血でありただの事実の集積である。それをイデアに還元して怪しまない。それでは春樹と違って一篇の小説すら書けないだろう。
しかしその美しさに真理があるわけではないだろう。2003年1月、イスラエル軍は「テロリスト」容疑者家族の家を次々にブルドーザーでおしつぶしていったが、彼らは特段の親切心をもって家を破壊した。彼らはブルドーザーで家を壊す前に、家人が家財を持ち出すのを手伝いさえした……。だれが読んでも吐き気を催すだけの欺瞞的な行為が、イスラエルの新聞では美談として掲載されている。新聞の美談という見せかけの美に対抗するのが、それを醜悪な欺瞞だと糾弾する理念の美しさだった。
いやだから、私がおかしい!と指摘しているのはここですよ。「新聞の美談という見せかけの美に対抗するのが、それを醜悪な欺瞞だと糾弾する理念の美しさだった。」
「新聞の美談という見せかけの美を拒否するためには、それを醜悪な欺瞞だと糾弾する理念などいらない。ただ人生が欺瞞に満ちているという誰でも持っている知恵さえあれば足りる。」わたしが「ふつう」と言っているのは後者の立場です。
イスラエルには「従軍拒否者」の問題がある。反戦論者である。従軍拒否者はどのようにイスラエルに吸収されているのか。イスラエルを文明化された道徳的な国家であることを証明するために彼らは利用されている。反戦論者もちゃんといるという宣伝、そこに美談化があり、反戦論者は好戦的な国家を支えるものとして遇されてしまう。テロ以外にたたかいを知らないアラブ諸国の後進性を際立たせるために「イェルサレム文学賞」が設置され、受賞者がそこでイスラエル批判を語ること、まさにそのことがイスラエルの懐の深さ、理解力、先進国性を証明するわけである。
そのとおりです。「イスラエルの懐の深さ、理解力、先進国性」を強調するのは大事なことだと私も考えてきました。
従軍拒否者は、ほんとうはどこまでも反戦論者かもしれない。だとしたら、「イェルサレム文学賞」は、ほんとうは優れた文化的な賞ではないのか。つまり見かけの作為的、欺瞞的な美のヴェールを一枚剥ぐと、そこには醜悪な内臓の露出があるのではなく、ほんとうの美が、まるで裸体のように姿を現すのではないのか。
「イェルサレム文学賞」は、優れた文化的な賞であることは最初から明らかでしょう。「イスラエルの懐の深さ、理解力、先進国性」が事実であることを理解しておくことは、虐殺の質を正確に捉えるためなのですから。
イスラエル国家=女。アモス・ギタイの映画の1シーンを思い出したりしましたがやはり意味不明ですね、わたしには。
〈卵〉とは何か?人間であれば皮膚と内蔵を持ち性的交渉を持つことができるが、隔離壁*6や国家とは寝ることができない、ということだと思います。*7
<存在>に対する<出来事>、思考に対する行為、哲学に対する政治、この二元論が現在でも残存しているという話である。脱出口はひとつしかない。<出来事>を外的な限界とするのではなく、内的な限界であることを「強調すること」である。つまり、書くことである。
http://freezing.blog62.fc2.com/blog-entry-582.html
わたしが書く。言葉に逆らって書くといったアクロバッティクな営為を継続しない限り、わたしたちは言葉やイデアにちょろまかされてしまう。なんかそういう風なことが言いたいのかな。まあそれは正しいとして。
流血の惨事を(テレビ画像ではあれ)見れば、誰でも「まあ」といって顔を背ける。その即自的感情をただちにイスラエル国家批判に直結されるのは錯誤であるし有害だ。それは一般論としては正しい。しかし、その短絡を避けるために少しの勉強を積み重ねてなおかつ、イスラエル国家批判以外の結論を出しようがないではないか。
「イスラエル国家批判はイデアによるものであり美しすぎる」なんて為にする議論としか思えない。