松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

世間に打ちのめされそれでも生きるために

最近、漢文教育不要論が話題を呼んでいる。

「カネ稼ぎの視点から漢文教育不要を述べる人に教養的側面から意義を説くのは、添付ファイルもろくに送れないじいさんにIoTやAIの魅力を説くくらいハードルが高い」
https://togetter.com/li/1211149 はその波及の一つ。

コメント欄に次のように書き込んでみた。

教養とは何か?についてみな、勘違いしているのではないか。教養は生きていく上では必須である。馬鹿で力の強い上司とかが無理を行ってきた時、その行為を侮蔑しないまでもそれに屈しない力を与えてくれる。どこまで追い込まれても、自死しない一縷の望み(幻想の光)を抱き続ける力を与える。

楽天白居易)が詠った「琴詩酒友皆抛我〈きんししゅのともはみなわれをなげうつ〉雪月花時最憶君〈せつげつくわのときもつともきみをおもふ〉」。
ひとは職場や組織や国家や世間の評判のなかで生きるものではない。雪月花の美しさの時に知った宇宙との交感に生きるものだ、それを思い出せるか!

わたしたちは追いつめられている。〈(上司に)反抗する力〉〈(世間を)侮蔑する力〉を、自分の人生のなかからなんとかしてつかみ出し、取りすがらなくてはならない。

財務省近畿財務局の一職員が自死したという報道を聞いて、「ひとは職場や組織や国家や世間の評判のなかで生きるものではない」とすればそれをどう実感すればよいのか?、を荘子を読みながら考えた結果。