松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

中山世鑑を読め

某氏に中山世鑑を読めと言われた。
国会図書館デジタルコレクションで読める。


中山世鑑とは:1650年に首里王府によって編集された琉球初の正史である。編集プロジェクトの中心人物は羽地朝秀(向象賢(しょうしょうけん))。


琉球創世神話について触れた後、舜天から尚清までの歴代国王(ただし欠落あり)のプロフィルや人物像に迫るエピソードが記されている。」
琉球王権は完全無欠の独立性を誇ったわけではない。
中国に対しては冊封制(宗属関係)を受け入れるという形式的な従属関係にあった。1609年以降薩摩藩に武力で征服され、王権は薩摩藩(あるいは江戸幕府)に制限されることになった。


正史を持っているものは国家である。ただし、1609年以降の琉球国家は、権威の起源を日本に求めるといった形での歴史(話)を語る可能性もある、その点に注意して中山世鑑を読んでみよう。といっても、netで読めるのは国会図書館デジタルコレクションであり、そんなものを読みこなせる能力は私にはないが。


琉球国中山王、尚圓公七世嫡孫、時王尚賢公 聡明〓知、継承太祖君〓基以来〓〓國治 云々と書いてある。p5
王の自称が「琉球国中山王」であり、琉球国王でなかったから琉球王国はなかった、という人が居るが笑止としか言いようがない。
p6 には舜天に始まる系図が掲げられている。いかにも中国風の名前である「舜天」とは誰か?「舜天をはじめとする舜天王統3代の名前は、『おもろさうし』や『歴代宝案』に見受けられる琉球の人名の漢字・かな表記とは特殊で、後世になって付けられた諡ではないかと思われる。」「舜天の実在を証明する史料は全く残っていない。」ウィキペとされている。
琉球国王一覧は、下記にあるが、舜天、英祖、察度の三王統は歴史学で確認されていないようだ。
ウィキペディア琉球国王


p8には、天神阿摩美久 築之 とある。

p8左に為朝公登場

p9左に 大明洪武初、皇帝が使諭諸邦 したと。(中山王、山南王 山北王)

という感じですね。