松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

反日か反日本か?

watashinimさんが書き付けた

反日」を否定するという行為に躊躇する、ある日本人の姿勢への攻撃に加担

に、sharouさんが、意味がわからないと反応している。
http://b.hatena.ne.jp/sharou/20090713#bookmark-14606426
http://watashinim.exblog.jp/9975529/ の本文はまだ読んでないがこの断片にだけ反応したいと思った。

確かに、この文章は何重にも入れ子になっているので読みにくい。
1。「日」
2。「反日
3。「反日」を否定する こと
4。「反日」を否定するという行為に躊躇すること
5。「反日」を否定するという行為に躊躇する日本人 を攻撃する
6。「反日」を否定するという行為に躊躇する日本人 への攻撃を批判する

と6重の構造になっている。
ここで問題は最初の1。であり 「日」=日本 であるが それだけでなく 「日」=太陽 でもある。(宣長が言ったとおり)
つまり1 は1=1 であることにより、あらゆる集合を予め潜在的に孕んでいるのだ。

分かりにくいといったが、実は「4。「反日」を否定するという行為、に躊躇すること」は、わたしの気持ちそのものだ。
ある種の文章に対し、苛立ちを感じながら、それを直接表に出さずにきた。
唯一書けたのはこの文章。http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090701#p1 
戦後革命の挫折と アジア主義の隠蔽 といった視野で、考えたいのだが・・・


自己=挫折を直視せず、例えば「中国を否定するという行為に躊躇すること」というウジウジに留まることによってそこで当然語られてもよかった批判を留保しつづけて定年を迎えた左翼教授、といったイメージを形成しそれを批判しているのだ・・・と理解していただいてけっこうだ。この場合は「5「反日」を否定するという行為に躊躇する日本人を攻撃する」になりますね。


なぜ、「反日」を否定するという行為に躊躇するのか? それは、日の丸好きの人を喜ばせるからといった利敵論だけが理由ではない。
「わたしたち」の社会は「戦前からのアジア侵略/アジア人差別」を清算せずかえって(大幅にリニューアルしてではあるが)自己のうちに組み込んでおり、わたしの存在様式もそれと共犯関係にあるということ。「反日」を否定するという行為はその共犯関係を否定することにつながるからだ。


しかしなぜそんなにも回りくどく言わなければならないのか?
「自己が依拠してきた発想や存在の様式を変換する契機を、日本の戦後過程における社会構造の責任との関連において、極限的に迫求する方向に見えてくるヴィジョン」という文言を受け取るだけでは、「反日」を再び偶像化する誘惑に対する歯止めがないからだ。「反日」を再び偶像化する誘惑とはスターリニズムであり、収容所収容者に対する金正日の犯罪を口にしないという行為を持続しつづけることである。

(7/14記)

1。日の丸が好き
1’日の丸が嫌い
2。日の丸法制化
2’日の丸法制化反対
3。卒業式での日の丸強制
3’卒業式での日の丸強制反対
4。卒業式での日の丸強制反対者への免職
4’卒業式での日の丸強制反対者への免職反対


日の丸派は、1→2→3→4と急進的に抑圧を強め、社会を全体主義化していく。
それに対し違和感を持つ側は、1’→2’→3’→4’と、そのシンパを増やすことが出来るはずである、論理的には。
最初のレベルでは、「日の丸が好き」か嫌いかを問うているだけである。つまり「嫌いである人」の存在は予定されている。
次のレベルでは日の丸が法的に国旗となった。ところが国旗とは何かを法律は規定していない。したがって嫌いである人は嫌いなままである。
次のレベルではある場所で日の丸が強制される、ここにおいて反対派は自らの根拠を雄弁に述べたてなければならないはめに陥る。
しかし次のレベルでは、免職という不利益処分が行われたわけで、それに相当するだけの巨大な不正だったのだということの挙証責任は、当局側に転化される。


ところが「日の丸が好き」は繰り返されることで、常識化される、そしてそれを共有しない人は非国民とみなされ、「4。卒業式での日の丸強制反対者への免職」、が許容されてしまうということが起こる。
ここで最大の効力を発揮するのは「日の丸を嫌うことは日本を嫌うことだ」というロジックである。
実際には日の丸を嫌う左翼はたいてい、日本の敗戦処理のあり方がすっきりしていない(中国、韓国が理解できる論理を構築して対峙すべきだ)と考えている。これは、国家を無視しているのではなく、自分の方向性の方が国益にかなうという言っているだけである。


もちろん日本人だからといって国益という発想から離れて思考する権利はあるし、それどころかむしろそうすべきなのである。しかし裁判に訴えるときは憲法判例を尊重して論理を組み立てるしかないように、世論に訴えるときは、国民の共通の利益といったものに最終的判断基準をおいて論じるのが有利である。
もちろん不利を承知で少数派であっても自己の主張をしていくことは大事である。しかしその場合も、自己の主張の根拠はなんらかの普遍性(正義)であり、敵もその普遍性を理解すべきものだという立場で文章は書かれるべきである。敵を侮蔑することはレトリックとしては許される。
例えば「日本」とは何だろうか?厳密な定義はできない。しかし愛国主義者は「日本」という実体がありそれを毀損することは許されないとする。ここで反対派は「日本」という実体はなく複数性だけがあると言っておけば良い。(もちろん戦争犯罪糾弾のように、敵を糾弾するために限定しなければならない場合は別だ)


ところが反日原理主義者はこの理屈が分からない。彼らは原理だけが大事なのである。反日という原理は存在しえない。日本という原理が存在し得ないのと同じだ。
反日原理主義者とは何だろうか?
自らのルサンチマンを原理化するといった、みじめな症例に罹患しているだけだろうか。

書きかけ


「日の丸を拒否する人は日本を拒否するように見られる」から不利な戦術だ、という良く考えられたどこからも逃れようがないかのような周到な攻撃を、悪意がまったくないある女性から投げかけられ考えているうちに・・・
「日の丸を拒否することは、日本を拒否することではない。」というテーゼを確認しておくべきだ、となりました。
ここで日本とは、「明治国家よりはるかに遡った古事記万葉集以来の文化的統一性を指す」。そして、太古以来日本語をしゃべって生活してきた人々の総体を常に参照する。

日の丸を拒否することは、日本を拒否することではない。

というテーゼは実は左翼の側からも評価されない。彼らはむしろ、

日本を拒否することは、普遍を拒否することではない。

と言いたいみたいだ。1975年に、東アジア反日武装戦線がでてきた時、わたしたちは「なぜ反帝*1ではなく「反日」という言葉を使うのだろう?」と強く疑問におもったわけだが、時代は移り、「左翼=反日」という攻撃が一般化するなか、それに対抗して「反日上等」というアイデンティファイをする人も(狭い範囲では)少なくなくなってきたようだ。

α.日本を拒否することは、普遍を拒否することではない。

β.日の丸を拒否することは、日本を拒否することではない。

γ.〈 〉を拒否することは、日の丸を拒否することではない。

日の丸についても1999年に議決されてしまったので、TPOによっては「日の丸を拒否する」ことにより不利益を被る可能性がある。もちろん“不利益を被る可能性を犯してこその政治思想だ”という考えもありうるが、とにかく日の丸を拒否しない可能性をも考えておかなければいかない。そこでγを考えておく。ところでこの場合〈 〉とはなんだろう。まあ内心の自由といったものだろう。
論理的にいって拒否は否定を含む言葉なので、文章が二重否定になって意味が取りにくい。βでいうと、日本を拒否することが小さい丸で日の丸を拒否することがそれを含む大きな丸だ。

β1.日本を拒否することは、日の丸を拒否することだ。
β2.日の丸を受け入れることは、日本を受け入れることだ。
いずれも論理的に正しい。
α2.日本を受け入れることは、普遍を受け入れることだ。
γ2.内心の自由を受け入れることは、日の丸を受け入れることだ。
うーん何か変な感じもするが?