松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

日本語として読み取れません。

noharra2006-04-16

我らは自他の敬愛と協力のもと、自然との調和、多様な文化の受容と共存を培ってきた我が国の誇りある文化を受け継ぎ発展させ、人類社会に貢献することが、崇高な使命であることを確信する。
「新教育基本法案」
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20060410#p2

上記を含むわたしの4/10付け記事に対して、
http://d.hatena.ne.jp/myhoney0079/20060413/p2
で次のようにリンクしていただいた。

# 教育基本法改正:「とにかく反対なのであって、反対のために石でもなんでも投げたい」

# noharra 『TBありがとう。あらかじめ国境を越えることができない普遍を立てたいと思っている人たちって、頭悪いとしか思えないですよね?』 (2006/04/14 07:16)

# myhoney0079 『コメントありがとうございます。。。。が、日本語として読み取れません。』 (2006/04/16 22:02)

# noharra 『日本語の定義域が違うということで・・・ 難しいですね。』 (2006/04/16 23:14)

 私は誰かにも注意されたように、相手に理解して貰いたいと努力をあまりせずに書いてしまうことがある。
myhoney0079さんは
だとしても上記のわたしの4/14付けコメントは、「あらかじめ国境を越えることができない普遍を立てたいと思う」人たちの思想はおかしいという意見だ、と理解できなかったのだろうか?myhoney0079さんは。それとも「あらかじめ国境を越えることができない普遍を立てる」という文章自体の意味が分からなかったのだろうか。おそらく後者だろう。
で、「我が国の誇りある文化を受け継ぎ発展させ、人類社会に貢献することが、崇高な使命である」という文章は理解できるわけだ。

一 教育の目的は、(略)共同体とのかかわりの中で人格を陶冶し、(略)

儒教的伝統においては人格の陶冶は、当然「斉家」「知国」といった家族や共同体に関わる。そうするとこのフレーズは「家族とのかかわりの中で人格を陶冶し」とあえて書かなかったのは何故か問われる。おそらく現在の個々人の家族観は多様なので広い意味の儒教的倫理であっても適用できないと考えたからだろう。で家族や共同体に属さない「他者とのかかわりの中で人格を陶冶」する必要は無いのかと言えば、そんなことはなくてあるだろう。だから私は「共同体とのかかわりの中で人格を陶冶し」というフレーズを特に強調するこの「新教育基本法案」の一部は法律として不適切であると思う。(もう公明党との協議を経て訂正されて跡形が無くなっている訳ですが)
わたしの発言に対し「日本語として読み取れません。」とコメントするのは喧嘩を売っているような発言であり、責任追及されるのは必至だろう。わたしの上のような文章もまたmyhoney0079さんにおかれて「日本語として読み取れません。」なのかどうか回答してください。わたしの文章は読みとれず「新教育基本法案」なら読みとれるのか、それとも両方とも読みとれないのか?