松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

馬鹿の可塑性 −藤樹の性善説−

中江藤樹と彼の生徒大野了佐のエピソード。

寛永十五年の事なり。大野了佐と云へる者来ッて藤樹に学ぶ。初め藤樹が大洲にありし時、大野某なる者と友とし善かりしが、其の子了佐は天性愚鈍者にて、殆んど一人前の人間たるベき望無く、到底家を継がしめ難き者と見えぬ。父は已むを得ず之に賤業を習はしめて一生の計を為さしめんとしたり。されど流石に了佐も士分の家に生れて、我が不肖の為めに当然己の占むべき地位を落さるるを恥づる心深く、よッて窃かに(ひそかに)藤樹が許に通ひて医を学ばんとせり。藤樹其の志と憫ん(あわれん)で、之に『大成論』を授けしが、読誦数百遍に及びても遂に一字をも記する能はざりき。其の中藤樹大洲を去りで故郷に永住の事となるや、了佐はまたまた藤樹が後と慕ひ来りて学べるなり。此の時了佐が心事を思ひ遣れぱ、其の決心は蓋し容易ならざるものなりしならん。藩中知人の辱かしめや侮りは飽くまでも彼に群がり纏ひしならん。彼は自己が天性の魯鈍により、親を苦しめ家を辱かしめるに至る事の如何にも心苦しかりしならん、學若し成らずんば骨になりての外は還らじとの覚悟を抱いて遙々と藤樹を訪ねたりしならんと思はる。藤樹も亦彼が此の切なる心事を知れぱこそ、幾んど畢生の精力を傾け注ぎて之を教えへしかば、さしも魯鈍の了佐も遂に立派に成功し、医を以て家を成すに至れり。それまでにせし藤樹が教育の労は想像の外にて一夕諸生に語ッて曰く『余は実に了佐に於て吾が精力の全部を竭し了れり。されど彼に勉励の功あるにあらざれば、吾も亦乙れを如何ともする能はず。諸君の如きは天資決して了佐の比にあらず、苟も(いやしくも)志あらば何の成らざるをか憂へん。成らずとせば唯一勉字を欠くによるのみ」と。夫れ天下の英才を得て之を教有するの楽は孟子も之を曰へり。鈍才劣才を得て之を物にするの苦心は聞くこと少し。既に學ぶの熱心あり、教ふるの熱心あらば、天性の賢愚の如き第二第三の問題のみ。此の師ありて此の弟子あり。天才を自由に煥発せし者のみが成功にあらず。鈍才が刻苦によりて玉成せしものは更に此に優るの成功にして、吾等は却ッて後者の例に依ッて非常に大なる教訓を受くるなり。教えて倦(う)むことなき藤樹が師としての高徳は固より(もとより)伝ふべし。學んで天性に打克ちたる了佐が刻苦は当(まさ)に永久に伝えて人を奮はしめるの価値ある可し(べし)。此の一逸話、実に古今東西の歴史上罕(まれ)に見るの美談なり。*1

要するに、了佐という青年がわざわざ四国から近江まで藤樹を慕って学びに来た。だが彼は大変な魯鈍(バカ)でどうしようもない。しかしながら藤樹の大変な努力でようやくなんとかなった、という話。http://www.town.adogawa.shiga.jp/nakaetouzyu/nakae-index.htm
安曇川町役場の「近江聖人 中江藤樹」という頁では、次のように簡単にまとめられている。

また、魯鈍の門人であった大野了佐にたいして、大部の『捷径医筌』を著わし、それをテキストにして熱心に医学を教え、立派な一人前の医者に育てあげた話は、人を教えて倦まない藤樹の生き方を知るうえで、あまりにも有名なエピソードの一つである。

わたしは今回、すこし苦労して、わざわざ読みにくい明治40年発行の中里介山のヴァージョン(3頁にわたる)を紹介してみた。箸にも棒にも掛からない奴を測り知れない熱意でまともにしあげた、というだけなら偉人伝の定番にすぎない。
「教えて倦(う)むことなき藤樹が師としての高徳は固より(もとより)伝ふべし。學んで天性に打克ちたる了佐が刻苦は当(まさ)に永久に伝えて人を奮はしめるの価値ある可し(べし)。」介山は、藤樹の熱意はもとより讃えるが、それよりも天が与えた魯鈍という天性に自己の存在全てを掛けた刻苦によって打ち勝った了佐の行為を、古今東西まれにみると最大限讃えている。ここが気に入ったので紹介してみた。
 「藤樹はいかなる人も良知あるものとし良知は本来人に具(そな)わるものにして即ち人の天に受くる所とせり*2」つまり性善説です。性善説とは、人間に性(本質)というものがありそれについて善と規定できるという説とは全く違います。性(ここでいう良知)とは可能性です。したがって魯鈍なる者はそうした条件を乗り越えるだけのことがないかぎり魯鈍のまま終わるでしょう。しかし、ある必死の努力をすれば魯鈍であったとしてもその条件を乗り越えることができる可能性を持つのです。この二つの文章は実は同じ事を記述しているのですが、断固として後者の記述の方を選ぶこと、それに儒教性善説はあります。性善説とは人間の可塑性を信じることだ。それを最も雄弁に語っているのがこのエピソードだと思う。
追記、10/23:
人はひとに影響を与えることができる。“誠を尽くす”ことによって、ひとをして彼/彼女自身のうちにある良知に目覚めさせることができる。良知即ち天命を知れば、「世に工夫して成らぬ天命はなし」、ということになる。*3
ところで「世に工夫して成らぬ天命は無く、成らざるは工夫の仕方悪しきなり。」という文を読んでどう感じられるだろうか。大学受験から仕事での目標達成までわたしたちは外から設定された目標に向かって駆り立てられている。この文もそうした駆り立てるための言説の露骨な物として受け止められ反発される、と思われる。実際、藤樹の流れを汲む思想は教育勅語以降そのように利用され続けてきて、元の姿が「国家への献身」といったものと全く違うということすら不明確になってしまった。ふつうに考えるなら、大東亜戦争など「盗みをなし謀反をなし」たことに他ならないのに、<天>を忘れ国家をそれにすり替えた不幸なひとたちにはそれがわからない。
 日常生活をぼおっとおくっているだけではわたしたちは他者に出会うこともない。ネットで議論すればわたしたちは「不毛な他者」に出会うことができる。だが藤樹を知ってしまった私たちはそこで留まることはできない。他者に対して“誠を尽くせば”きっと他者を変えることができるのだ。*4

*1:中里介山中江藤樹言行録』内外出版協会p32〜34

*2:p60『日本陽明学派之哲学』井上哲次郎

*3:p73中里介山中江藤樹言行録』内外出版協会p32〜34

*4:なまけものには不可能。

(6)反反ジェンダーフリー

まず、最初の書評からの山形氏の文章を読み返す。

あるいは男女の性差。男と女は遺伝的にちがうし、それは嗜好にも出る。男女の職業的偏りは、社会の洗脳のせいだけでなく、遺伝的な部分も大きい。だから女の政治家や重役が少ない等の結果平等を求める悪しきフェミニズムはまちがいだし、「男の子/女の子らしい」遊びを弾圧し、性的役割分担をすべて否定する昨今のジェンダーフリー思想は、子供の本能的な感覚を混乱させるだけだ、と本書は述べる。

10/17の(5)で、山形氏に「「〜と本書は述べる」と書いて、書評対象本の要約であることを明記してある部分だけ見て、そのもとの本ではなく書評者を批判するの?」と指摘された。「野原の批判対象は、ビンカーの本ではなく、山形氏の数行の文章です。」と書いたが正確には、上記で“ ”と述べる、と書いてあるその中身の部分である。山形氏はその中身の部分については責任を負わないといわれているようだ。まあしかたないか? いずれにしても、その数行の中身についてだけ検討する。なぜかというと、前批判した西尾幹二などの反ジェンダーフリー派(「フェミナチ」なんて言葉も流行ってきているようだ!)の低級な部分に受け入れられることは間違いないように思えるからだ。

えっとまず、
1.男と女は遺伝的にちがう
−>遺伝か好きなら、インターセックス差別するな。
2.それは嗜好にも出る。
−>差異が存在するだけなら、それが遺伝のせいか?文化のせいか?は結論付けられない。
3.男女の職業的偏りは、社会の洗脳のせいだけでなく、遺伝的な部分も大きい。
−>現在の「男女の職業的偏り」が遺伝のせいとはどう言う意味だろう。「男の方が女より力が強い」を認めよう。それによる職業的適性も存在しただろう。土木は男の職場になっていたが、最近は力仕事は重機がするので、その操作の仕事は女性にも解放しなければならなくなった。それに対して、「政治家や重役」に対してはどんな遺伝子が関与しているのか皆目分からない。
4.この文章の一番おかしいところは、3行目の「だから」にある。2行目は次のように言い換えられる。「男女の職業的偏り」が、「遺伝的な部分」(による)だけでなく、「社会の洗脳のせい」でもある。であるとすれば、「女の政治家や重役が少ない等」という現状は、「社会の洗脳のせい」を修正するぶんだけ「結果平等」を求めて是正されるべきだ、という結論になる、と読む方が論理的にはむしろ自然である。であるのになぜ、反対の結論になるのか。「結果平等を求める」=「悪しきフェミニズム」というある種の人びとのステロタイプ思考との共犯関係に陥ることを知りながら回避していないからである。

  「女と男は違う」というのは本当にそうだろうか。子供を観察していると、同性同士あつまり「男の子/女の子らしい」遊びをしているという現象も確かにある。しかし入り交じって遊んでいる場合もある。「男の子/女の子らしい」遊びより入り交じった遊びを奨励する場合もあるだろう、というか共学施設で皆で遊ばせたければそうなってしまう。それに対し「弾圧」という強い言葉を使うのは、どうなんでしょうかね。著者のイデオロギー的立場の反映でしかない。入り交じった遊びをさせても「子供の本能的な感覚を混乱させる」などという指摘は見当違いだろう。それよりも「子供は無邪気である」権利を持つ、と私は良寛と共に考える。最近のテレビなどでは、少女や幼女を男性の性的視線の対象であるべき物だという視線によって撮られた、作られた映像が数多く放映されている。あんなものは弾圧すべきだ。

  さて、「平等という前提」よりも、この問題にもっと直接関わるのは「人間の可塑性」という論点だろう。これについては、「大野了佐と中江藤樹」として上に触れた。女であれ男であれ各自の間には差がある。自らの内にあるある特性が、<良知>に照らし障害であるとしか考えられなければ、是正すれば良いしそうでなければ放置するだけだろう。存在の深みに比べ、男女の差異は表面的なことにすぎない。*1

  「あなたがたは知的エリートとしてそれがフィクションであることを知っているけれど、愚昧な大衆をコントロールすべくかれらにウソを教え込んでいる、ということですね。そのウソをばらすな、と。」と山形氏が書いたときに念頭に置いていたことがどういうことなのかわからない。「人は努力すれば何かになれる」という教えは確かに「愚昧な大衆をコントロールす」るのに適当な思想だった、と言えるだろう。だが、私たちは一度は明治維新を成し遂げた。「良知即ち天命を知れば、世に工夫して成らぬ天命はなし」という思想がそれを成し遂げたと理解することもできる。

*1:そうではないという意見もあるだろうが。

(7)反フェミ/フェミの水掛け論(10/26追加)

10/26までに三人の方からコメントいただきました。ありがとうございます。
(1)

# 通りすがり 『匿名失礼します。上記1〜3のような反フェミ/フェミの水掛け論は耳にタコの世界ですね。もっとこう、プラグマティックで議論の土台になりうる、「遺伝的に違ったらどうなんだよ。抑圧しても差別してもいいのかよ」という、止揚を目指した議論が(一般に)広まることを期待します。』

(2)

# dennouprion 『統計的に男女差があっても個人差があるわけだから、差別は正当化できないはず。遺伝的なさがあるかないかを議論しても無意味だと思います。http://www3.ocn.ne.jp/~gthmhk/dskrmnc.html#kagaku

上記で紹介いただいたサイトから一ヶ所だけ引用すると次のようです。

だから私には、仮に女性の方が男性よりも生物学的適性により子育てとか家事に有意な差において適しているという証拠がいくら「科学的」に提出されたところで、果たしてそれが女性に子育てと家事を担当させることを正当化する理由にはならないと思うのです (*)。
http://www3.ocn.ne.jp/~gthmhk/dskrmnc.html#kagaku
男女に統計差があるなら役割分担すべきか

(3)

# Cman 『統計的な男女差が人為的な差別によるものかどうかを識別するために、遺伝的な要因があるかないかが問題なのだろうに。』

以上、野原は(1)(2)の方の意見に賛成です。(3)の意見は山形さんに近いのかな。
(3)の問題設定は、(1)(2)及び野原に理解されていないし、理解すべきかどうかという問題意識すらないようだ。したがってCmanさんは、もし議論したいなら、その問題設定の妥当性を私たちに対し教育しなければならないみたいだ。

(8)男女に差はある(10/28追加)

Cman 『あなた(方)の考えは、男女に遺伝的な違いがあるならそれを矯正すべきだということでしょうか?それとも遺伝的に違いはない、つまり、人間は空白の石版だと信じているということでしょうか?』

えーと。xyとyyだったかなとよく分からなかったので(恥)、
http://homepage2.nifty.com/kimura-c/topics/seibunka030309.html 性分化の機序  と言うところを見て勉強してみた。
(23,X;22本の常染色体と1本のX性染色体を含めて合計23本)
(23,Y;22本の常染色体と1本のY性染色体を含めて合計23本)
精子にはxかyか二つの可能性があるが卵子はyだけ、で授精で性が決定される。(例外はある。)つまり男女に遺伝的違いはあるでしょう。それで・・・
統計的な男女差とは例えば男女の平均年収の差とかだろうか。その差を「遺伝的に説明できる」とするその理屈が分からないのだが?

(9)正しい理屈なのか(11/4追加)

# Cman 『何が何でも差別に結びつけようという意気込みを感じますが、そんなことを言っているのではありません。山形氏のもとの書評にもあったように、男女で遺伝的に適性や嗜好が異なるなら、職業分布などに差があるのはむしろ当然だということです。そんなに難しい理屈でしょうか?』

現状の権力分布やお金や職業分布において差別が存在する、という理解がフェミニズムの基礎だと思う。「職業分布などに差があるのはむしろ当然だ」という言説が反発を受けるのは当然だ。自然科学としての厳密性をクリアーした学説なのかどうか聞いているのだが?

(11)

# Cman 『おやおや、逆ギレですか・・・。批判されることに耐性がないならコメント欄を外したら如何でしょうか。それか、反対意見はお断り、と注意書きをしておくとかしたら。』

批判がないから怒っているのだが?