松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

めぐみさんやアンネより百倍悲惨な少年

原告(高政美)は1963年10月18日の第111次船で北朝鮮に帰国した。共に帰国したのは、養父、母、金ビョンシ(兄、養父の連れ子)、金オクスン(姉、養父の連れ子)、金政愛(ジョンエ、実姉)、金太虎(テホ、実弟)である。

帰国船は清津に到着した。この時金ビョンシ(以下「兄」とする)は清津の施設や風景と出迎えの人々の様子に落胆し「船から降りない、日本に帰してくれ」と言った。

原告らは帰国船から降ろされ、清津の帰国者招待所で過ごした。その間も兄は日本への帰国を要求していたため、どこかへ連行されていった。帰国当時兄は10代半ばであり(略)
残された原告らは新義州に配置が決定し移動させらた。

1968年5月頃、原告は家族と共に、帰国直後に引き離された兄に会いに行った。兄は第49号病院に収容されていた。第49号病院は精神病患者が入院する場所であり、北朝鮮による拉致被害者横田めぐみさんが入院、死亡したと北朝鮮当局が発表した場所でもある。
そこは山奥で、小さな白い塀に囲まれたところであった。塀の中に平屋の建物があり、建物の中は鉄格子で仕切られていた。床は汚物だらけであり非常に劣悪な環境であった。5年ぶりに再会した兄はあまりの変わりようから父でさえも判らないほどであった。健康でたくましかった兄が、まともに立ってもいられず倒れそうな様子で、あまりにも惨めな姿に変わってしまっていた。原告らは変わり果てた兄を正視できず早々にその場を後にしたほどである。

その後、1971年頃兄の死亡通知が届いた。養父と母は兄の遺体を取り戻そうと試みたが、結局叶わなかった。また、兄が収容されていたとされる第49号病院は解体されなくなっており、実際は政治犯収容所へ送られていたことが後で分かった。(以上 訴状p11〜p13 http://hrnk.trycomp.net/mamoru6.php の一番下にある)

「めぐみさんやアンネより百倍悲惨な少年」という題を付けようと思った。悲惨な人の悲惨さを比較するのは悪だが、そう思ったからである。めぐみさんは朝鮮では、(少なくとも前半)よど号グループと同じような生活をおくっていたようだ。生活条件としては特権階級である。金ビョンシについては最初と最後しか分からないので8年間の彼の生活は想像するしかないのであるが、暖かい寝床と三度の食事が保障された普通の生活を一度も持続的におくれなかったのではないか。
悲惨である。
そして彼はもちろん何の犯罪も犯していない。金正日は罰せられるべきだ。
 
(金ビョンシだけでなく、養父や高政美自身も、半殺しの目に会う)
  
至る所にごろごろ転がっている、手に触れることができないほどの悲惨。