(平板な)唯物主義の否定
さて、デリダ。「マルクスの亡霊たち」って一体なんだ?ということですが、高校生にも分かるように言えば、(平板な)唯物主義の否定です。
・・・不気味なものとしてのマルクスは、もしかするとかくも性急にあれほど多くの幽霊たちを追い払うべきではなかったかもしれない。全部を一度に、かくも簡単に、彼らが存在しないという口実(もちろん彼らは存在しない。だがそれがどうしたというのだ)−−あるいは一切が過去であり、過去であり続けるべきだ(「死者が死者を葬るにまかせよ」*1など)という口実のもとに*2追い払うべきではなかったかもしれない。彼が、交換価値やイデオロギー素や物神の(相対的)自立を分析する運動のなかで、幽霊たちを自由なままにし、解放さえするすべを知っていたのでなおさらである。
p357『マルクスの亡霊たち』isbn:9784894345898
彼は、幽霊と会話することを学びながらではなく、彼または彼女と話し合う*3ことによって、彼/女に言葉をゆだねあるいは返すことによって、たとえそれが自己のうちであっても他者のうちに、自己のうちの他者に対してであってもそうしつつ、生きることを学び=教えなければならないのである。というのも、彼ら、すなわち亡霊たちは、たとえ彼らが存在せず、たとえもはや存在せず、たとえまだ存在しなくとも、つねに〈そこに〉存在しているからだ。
p359-360『マルクスの亡霊たち』isbn:9784894345898
最後まで分かったようで分からない結果に終わったのですが、・・・
ヤスクニ。小泉−安部によって主題として浮上させられるまで神道とか神社なんてものが思想的に考察すべき何ものかであるという発想は、戦後左翼知識人にはなかった。それらは封建遺制であり遅れたものであり放っておいても衰退すべきものであるはずであった。そのような構えには賛成しないとデリダは言っている(と思う)。
彼/女とは誰か、ですが分からないので、適当に思いついたひとを代入してみましょう。例えば東条英機*4。
死者は存在しない−−とは小泉義之ですがデリダの思想は違うようです。東條英機がいつまでも生きているかのように語りかけ、相談し、批判しつづけること。東條でなければ他の誰かを持ってきて彼/女に言葉をゆだねあるいは返すといった作業が行われてもよかったのだと。これはありふれたことでもある。アウンサンスーチーであれば彼女は幽閉された空間にあって父アウンサンと対話しつづけたであろう。日本人鈴木啓司すらその言葉をゆだねあるいは返す反復のなかに登場しただろう。というか死者ではなく、ひとではないもの、〈コウミーン・コウチーン〉*5といったものの方が幽霊と名指されるにふさわしいかもしれない。